このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

970年の伝統、 【御田祭】
7月4日、夜が明けきらないうちに出発し、広域農道を北上した。目指すは西郷村の年乃神神社である。

宮崎県東臼杵郡西郷村の田代神社。権現山とか日陰山といわれる山の中腹にある神社なのだが、この神社の田植え祭りとして970という年月を数えるのが“御田祭”である。祭りは7月第1週の日曜日に開催され、山腹の田代神社から山麓の上円野神社まで、祭神である彦火々出見命(ひこほほでみのみこと=山幸彦)の御降りを賜わることから始まる。そこで彦が乗り移られた御輿の行列が、村の中心部にある年之神神社まで下り、この神社の年の神に神幸するという形態を取る。

猿田彦を先頭に神官、ノボリモチ(幟を持つ人)、ウナリ(赤飯入りのおひつを持った婦人たち)やゲンカゴカタゲ(神輿担ぎ)、氏子総代など、総勢50人の行列は“上の宮田”での田植えを経て下ってくる。年乃神神社に境内にある“中の宮田”ではその間、牛馬をこの神田に入れて代掻きが始まる。御輿が年乃神神社に着くと神楽が舞われ、彦を歓迎する。

神田では牛馬による代掻きの後、田の中に御輿を担ぎ入れる“みこし入れ”、古来から伝わる催馬原(さいばら:田植え唄)に合わせて早乙女たちが稲の幼苗を植えていく。

この催馬原もだが、世襲で受け継がれてきた行列での役目など、平安の“田楽”の色を濃く残す。そのため、昭和63年に県の無形民俗文化財の指定を受けている。
社殿の中央には“くも”と呼ばれる天蓋を表しているのだろうか。彫り飾りが下げられている。この下が奉納される“豊年神楽”の舞台となるのだろう。
年乃神神社本殿。背後には神田、そして杉の大木そびえる。
クライマックスで植えられる稲の苗。

本殿の脇に置かれていた。
受付の巫女さん達(♪)。年乃神神社の前に設置されたテントでパンフレットの配布やお札の販売をされていた。
トラックから降ろされた後、神田に入る前に飾りを付けてもらう牛や馬たち。馬はサラブレッドではなくブルトン系のどっしりとした3歳から6歳の大型馬。牛は初産から3産目くらいの黒毛和種繁殖牛であった。

もともと御田祭。五穀豊穣と無病息災を祈願する祭りであるが、家畜の年間の安全を祈願する意味合いもある。農耕の主役が牛馬であった頃は、たくさんの牛や馬が神田に入ったそうだ。

連れてこられた牛は4頭であったが、みんな蹄が伸びて団扇のようになっていた。繋ぎ飼いなのだろうが、この待機場で削蹄を行っていた。普段から行って欲しいんですけどね。
いよいよ神田に馬が入り、ねじりはちまき姿の若者の発する「やーっ!!」というかけ声と共に疾駆する。畦の近くで泥が跳ね上がる度に歓声が上がるが、この泥。かかるとこの年の無病息災が約束されるというありがたい泥なのです。
馬を駆る若者の真白なはっぴはすぐに茶色へと染まっていく。明るい茶色であった馬体も泥に染まり、茶色の雫がポタポタと垂れていた。

裸馬にまたがっているため、どうしても馬上から泥の中へ落下することもある。やはり歓声が上がるのだが、走っていく馬を見ながら膝をついた姿が哀愁が感ぜられ、そしてユーモラスであった。
馬に続いて牛も神田に入った。馬と比べて激しい動きはないのではと思った方もおいででしょうが、負けず劣らず走るのです。急な動きに対応できるよう、牛を引く縄を長めに持っていた。
それにしてもカメラを構えた人が多い。雨が降っているので傘を差すのは当然。なのに、列の後ろの方に三脚を立てて脚立の上から神田を覗くおじさんには少し嫌悪感を覚えた。「写真を撮っているのだからそこ、どいてくださーい。」と何度も叫んでいたが、自分一人で祭りを見ているわけではないのである。なんだか非常に勘違いをしているなぁ・・・と思ったのだった。あなたのための祭りじゃありません。人が多いんだからファインダーの中に映り込んでくるのも当然。それに対してどうこう言うのは無神経というか、思慮が浅いというか・・・。こういった人の写真って、上手くてもあまり心には残りにくい写真でしょうね。

今年から古い農具“馬鍬(まぐわ)”も復活させた御田祭だが、当日は雷が時折鳴る、不安定な天気であった。大粒の雨が降っては止み、黒雲が次から次へと流れてくる。本当はこの後続く“みこし入れ”や“田植え”もみたかったのだけれども、本降りになる前に逃げ帰ってきた。

よって、ここまでで今年の御田祭は終了。この後のレポートは来年以降の天気に期待したいっちゃけど、よかですよね?
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(04.07.08)

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