このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

はやぶさ
HAYABUSA
あのころの駅では・・・。
列車設定は昭和33年10月1日。

同年8月に20系客車に車輌転換された“あさかぜ”の編成を使用して、東京と九州を結ぶ戦後3番目の特急列車として産まれた。

誕生当初の運転区間は東京−鹿児島間。22時間50分の長い時間をかけて走り続けるのである。しかし、同区間を当時の急行列車“霧島”に乗った場合約28時間かかることを考えると大幅なスピードアップといえる。

その後、昭和35年7月に20系を使用しブルートレインの仲間入りを果たし、鹿児島発着が西鹿児島発着に区間短縮されるも、日本最長距離特急列車として1515.3kmを走破した。また、列車は“ヨンサントウ”の頃、長崎へも乗り入れている。

私が“はやぶさ”を初めて見たのは福岡に引っ越してきた昭和60年。当時入っていた(?)ラグビーのクラブチームの練習中である。運良くというか、練習をしていたグラウンドが鹿児島本線に面するようにあって、列車が行ったり来たりする度に走るのを辞めて見とれていた。

この昭和60年の3月。15両編成の9号車にオハ24-700形『ロビーカー』が連結される。濃い青色の車体に鳥が翼を広げるように配されたステンレスの帯。太陽に反射する度に「いつか乗ってやるんだ。」と強く決心したのだった。
鉄道写真を撮るようになってから、博多駅に停車するブルトレ達は大好きな被写体であった。愛用のコンパクトカメラを持って、博多駅だけでなく青い機関車を撮りに下関駅にも行った。

そのころ(1992年頃)の“はやぶさ”は8時40分頃博多駅の8番ホームに入線してきたのではなかったか。「ポッ」という汽笛と共に“九州の主”、真っ赤なED76型が入ってくる。
“カマ=機関車”の次には電源車カニ24、そしてオハネフ25、オハネ25・・・とB寝台のみの西鹿児島行き基本編成。そして『ロビーカー』オハ24−700、『食堂車』オシ24、一人用個室B寝台『ソロ』のオハネ25−1000、一人用個室A寝台『シングルDX』のオロネ25を含む熊本止まりの付属編成の計15両。その編成美は筆舌に尽くしがたかった。
その後、平成5年3月17日に食堂車の営業停止、平成9年11月には13両への減車と熊本−西鹿児島間の区間廃止が行われ、“日本最長距離列車”の称号を大阪−札幌間の豪華寝台特急“トワイライトエクスプレス”に譲っている。
これは、鹿児島にとっては地元で永く愛された列車、そして首都圏への直通列車の消滅を意味していた。11月29日、西鹿児島駅ホームに居合わせた人たちは、記憶の彼方へと飛び去っていく姿をどのような気持ちで見送ったのであろう。
その後も夜行列車に対する整理縮小は続き、ついに東京−長崎間の寝台特急“さくら”との併結運転が平成11年12月4日より始められた。単独運転の区間においても、それ専用のヘッドマークは用意されず、全運行区間において“さくら・はやぶさ”の併結ヘッドマークが掲げられる。本州と九州内でこのヘッドマークの図案が異なる事が興味深い。本州のはすっきりしたデザインで好感が持てるのであるが、九州のものはゴテッとしている印象だ。
それから・・・。

結局“はやぶさ”に乗ることが出来たのは、大学受験で上京したときであった。

ソロに陣取り、車窓を流れていくヤードの水銀灯を眺めていた。どうしようもない、だけど心地よいけだるさ・・・。

ジョイント音の響く車内には、そんな時間が流れていた。
昔から、そしてリストラを受けて寂しさが漂う現在も大好きな列車である。博多駅での光景や、東シナ海をバックに走る光景。容易にその姿を思い浮かべるこができる。私の趣味の対象としての“鉄道”がいつまでも色あせないのは、この列車の存在が私の趣味活動と共にあったからかもしれない。

正直、ずっとずっと走り続けてもらいたい。そんな風に思える一本の列車である。
(END)
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(03.01.19)

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