このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

自分探しの旅って?
(04.12.18)
私には自分がない。そしてある時ふっと思うのだが、感情の起伏が人より弱いようだ。だから素面の時にはあまり笑うことがないし、自分が思っていることを上手に表現できない。自分さえわかっていればそれでいいや・・・とわかった振りをしている。

自分がないならそれを見つける旅を・・・。でもそれは私にとって現実逃避にしか聞こえないのだ。今まで歩いてきた道は?今抱いている世界観は?旅に出ることで何もかも変わってしまうなどという言葉を良く聞くけれども、今まで積み重ねてきたもんを丸ごと否定するようなイメージが一般的に言うところの「自分探し」の旅にはつきまとっている。

放浪の末にやりたいことを見つけたとしても、それは今までの独りよがりな価値観に肌で感じたものの修正を重ねただけであって、「自分探し」の旅は自己否定には繋がらない。結局は今までの自分と向き合う為の旅であって、非常に大きなエネルギーを使いながら、自分の人間としての価値をより深いものにしていく。変化をすることでそれまでの過去がプツンと切れてしまう訳はなく、振り返ろうと思えばすぐにたどることが出来る。足下からずっと背中の方向に伸びる糸をたぐり寄せる事が出来るのだ。

だから、旅に出たからと言って劇的な変化を得たとしても、厳密に言えば自分が変化する訳ではない。風景の見方が変わったとか、人との付き合いが楽しくなったとか、今までの世界観にちょこっと修正をしたくらいのことで、その本質的な部分は「自分」という点では特に変わっていないのだ。ベースは過去の「自分」にあり、そして今の「自分」にある。

結局の所、「私自身」からは逃げられないのであって、旅は自分自身を見つめ直す手段でしか無いのではと思うこともある。頼りない感性を頼りに、見知らぬ土地で自らの存在を確認しようともがくこととなる。写真を撮ったり、詩にしたり、文章を書いたり・・・。そうすることで、未来への何かしらを掴むこともあるかも知れない。

だから僕は「自分探し」の旅なんてしたいとは思わない。旅先で感じることが過去に抱いていた世界観の根本に由来していたものである事を知っているからだ。自己否定をする?はっきり言って馬鹿馬鹿しいのだ。自己を嫌と思うことがあってもそれはありのままの私個人であるのだから、否定したところで何のスタートにも立つわけがないのである。
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