このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

僕の九州鉄道黄金時代

(04.01.25)
Stay Gold
父の転勤で関東から九州に来たのは昭和59年8月のことであった。九州電化のパイオニア『南福岡電車区』の近く、春日市だ。幼稚園の頃から真性の汽車キチであるから当然ながら電車区へと自転車で行く。485系という特急形式を初めて見たのもその時であったし、今まで横須賀色や湘南色などのカラフルな電車に見慣れていたので『赤13号』という小豆色の交直流電車が非常に地味に写った。

当時の国鉄といえば民営化への歩みを始めていた頃である。しかし小学校1年生の私はそんなことは全く知らず、日々線路端で電車に見とれていたのであった。

その頃は九州交流電化の第2世代であるED75型300番台が現役最後の活躍をしていた。たまに「さくら」や「みずほ」を牽いていたのを見た記憶があるが、小さな体で濃青の長編成を引っ張るその姿は非常にしびれる物であった。ED76の初期型もコンテナ列車や寝台特急をばんばん牽いて走っていたと思う。世界初の寝台電車である583系はこの年の2月に九州撤退をしており、そのうち余剰車が714・715系として再出発。「マイタウン電車」という九州の近郊電車共通のヘッドマークを掲げて、主に西九州で活躍していた。

今は783系“ハイパーサルーン”が長崎本線で組んでいるが、当時は485系「かもめ」と「みどり」が11輌の長編成を組んで、鳥栖までを南下していた。「有明」にしても西鹿児島までの方向幕を誇らしげに博多駅のホームにたたずんでいたし、「にちりん」のヘッドマークは南国情緒にあふれ、南九州への思いをかき立てる。

気動車にしても賑やかだったのではないだろうか。見ることはできなかったが名門山陰特急「まつかぜ」がまだ走っていた。キハ30系列も朱色の車体でアイドリングも高らかであった。今年の3月の九州新幹線開業とともに姿を消す急行「くまがわ」も博多まで顔を出していたと思う。

博多駅も(客離れで本当はそうでなかったかも知れないが、)賑やかであった記憶があるし、平面的にとにかく広かった西鹿児島駅旧本屋の雰囲気は忘れられない。南福岡駅北側の千歳踏切もワイヤーが上下するタイプであった。今と変わらず開かずの踏切であるけれど。

鹿児島へと帰省する特急「有明15号」の車窓はまるで宝石箱のようだった。たしかに鳥栖機関区などの鉄道施設を見るのも楽しいのであるが、筑後平野を抜け、久留米の工場群、大都市熊本、八代市で球磨川をトラス橋がまたぐ。田浦の八代海の眺め、三太郎越え、出水の水田で憩うツル。そこから川内まで夕日の沈む東シナ海を見ながら走る。そうすると徐々に桜島が迫ってくる・・・。キラキラと光っていたのだ。でも九州新幹線の開業と共にそんな車窓をいっぺんに見つめることはできなくなる。

小学生2年生くらいの時どうしても東京駅に行ってみたくて、弟の貯金箱を略奪し友達と2人だけで博多駅まで行ったことがある。結局東京なんぞは夢のまた夢。鉄道警察に『補導』されてしまい、親に大目玉を食らってしまった。帰りがた、博多駅の筑紫口を歩きながら見上げると、新幹線0系がホームの蛍光灯に照らされて浮かび上がっていたのが妙に記憶に残っている。そういうことがあっても九州の鉄道は私の側にあった。


JR九州へとなって、『九州鉄道ルネッサンス』を経て・・・。新幹線の開通後にさらなる変化があるであろう九州鉄道であるが、福岡へと引っ越してきたばかりの頃が私の中で一番輝いていると思う。記録を全く取っていないこともあるだろうが、ちょっとマゼンダがかったその記憶映像はその時々の場面、非常にもどかしい。
>Index

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください