このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

夕食。

湯の岳庵へと向かったのであるが、思ったよりも予約が多く、ここの名物の山家料理は次回に持ち越しとなった。

その代わりにとガイドブックにも掲載されている新興の料理屋へと向かった。
・・・ここの店がひどかった。

料理はそこそこなのだが、何よりも接客の態度が店を利用したことを後悔させた。何があったかはここには書かないし店の名前も伏せる。私達家族以外にもこの店を利用しているお客さんがいらっしゃったが、大いに気分を害されて退出されていた。

“素”の接客。おもてなし。

それが湯布院観光の原点であり、リピーターの心を捉えて放さない部分なのであるが、これはあんまりだろう・・・と思った。新興とは書いたが、全く湯布院に縁が無いわけではない。何か大きくはき違えているのではないか・・・とがっくりしてしまった。

居心地の悪さから支払いを早々に済ませる。当然満たされるはずもない。帰りにコンビニで西の関のカップ酒を購入し、宿で飲む。熱めの温泉に入ってやっと落ち着いたのであった。
翌朝、強い朝の光に起こされてカメラを持って出かけることとした。

今回は今まで歩いたことのない方面へ向かう。

商店街を湯布院駐屯地の方面へ抜け、大分川の支流である白滝川の川岸を行けるところまで・・・と上って行った。
由布岳を左手に見ながら歩く。

夜露だろう。いつの間にか私の靴は濡れていた。

小さな橋の脇を抜け、田畑を抜け・・・。ここらは地元の人の生活の空間である。

時折、犬を連れた人とすれ違い、朝の挨拶を交わす。
まだまだ川沿いを歩いていけそうな気はしたが、山が迫ってきたあたりで引き返すこととした。

そこから湯布院駐屯地を目指す。後から調べてわかったのだが、この付近が古いキリシタンの墓石が残る並柳地区であった。

古いキリシタン墓石は町内に86基残っており、これはキリシタン大名として名高い大友氏配下の奴留湯氏の支配と、豊臣の治世から江戸幕府初期に徹底されるキリシタン迫害の名残である。
湯布院駐屯地の正門までやってきて、中島地区から金鱗湖のある岳本地区へと抜ける。いい加減に宿へ戻らないと朝食の時間。部屋に残してきた嫁から「まだ戻ってこないの?」という電話がかかってくるかもしれない。

うんざりとするような観光客の姿を見ることの無いこの朝の散策(・・・というか散歩)は私の一番の楽しみである。毎回書いているかもしれないが、私が湯布院に持っている“静かな山里”という原風景を色濃く感じさせてくれる瞬間なのだ。本当は誰にも邪魔される事無く歩き続けたいのであるが、仕方が無い。こうやってちょこっとの時間が作れるだけでも良しとすべきだろうか。
そうやって下りてきた湯の坪の界隈ではゴミの収集車が忙しそうに発進と停車を繰り返していた。

賑やかな一日が始まる前の準備の時間。今日は連休の最終日でもあるし、町は間違いなく大いに賑わう。

収集車の後を追っかけるように私は宿へ戻る。
町のメインストリートである由布見通りの商店に大分国体の幕が掛かっていた。9月からの開催。直前だ。

そういえば、いい加減に腹が減ってきたな・・・。急いで宿へ戻るとしましょうかね。
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