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研究ノート 住宅地に消えた葛飾の地形
掲載誌情報

東京交通短期大学 研究紀要 第21号
2016年03月23日発行
発行地:東京
発行所: 東京交通学会
ISSN 0917-5237
26cm

別タイトル:The topography of Katsushika disappeared by changing into the residential area
遠藤ユウキ Yuuki Endo

要約(目次含む)

本稿は、葛飾区の地形に関する昔話や伝承、都市伝説を再発見するとともに紹介をするものである。
葛飾区は、東京23区の内最も北東に位置し、川はあるものの海も山もないほぼ平坦な地形である。さらに、地盤沈下と土盛りで地面の起伏は不明瞭となり、耕地整理、区画整理によって古道の道筋は変わり、水路は埋め立てられ、昔の地形は住宅に覆われて消えていった。
葛飾区に伝わる昔話や伝承の中には、かつての葛飾区には海も山も存在したという驚くべき話があり、都市伝説の中には、隠された理由によって放水路や区役所庁舎が計画されたという話がある。そして、その話にまつわる構造物や地形が残っている可能性があるのだ。信憑性の低い話ではあるが、「まち歩き」的にはとても興味深い話なので、以下の話を紹介する。

  • 昔話「宝船伝説」
  • 都市伝説「荒川放水路にトンネルを掘ってはならない」
  • 都市伝説「葛飾区役所は高床式」
  • 住宅地に消えた謎の堤防「築廻し」
  • 幻の「二上山」

使用写真21枚:筆者撮影20枚(1982年〜2016年)、引用1枚
地図1枚

念のために

本稿の目的は、昔話や都市伝説について科学的に検証することではありません。
書いてあるとおり、紹介することに重点を置き、まち歩きしたくなることを目的としています。

投稿先は考古学の学会ではなく、交通の学会です。
トンデモ本に出てくるような話でも、観光としては注目すべきです。

大抵、都市伝説などは、矛盾していたり、非科学的であったり、大げさであるものです。
一部には結論を書きましたが、他は妄想の余地を残してあります。

抜刷り(P.125-P.140)は下記図書館にて読めます。補遺(2017年版)と合本になっているかも。

葛飾区立図書館 (中央図書館など数館):(記号 K 54.94 エ で排架)

P.130 注6) の補記

片側の堤防が切れやすくなっているという話は他の河川でも普通に存在します。

注6+荒川放水路の堤防にも都市伝説がある。
左岸堤は右岸堤より断面積が小さい。
荒川放水路増水時、中川放水路左岸側に氾濫
して右岸側の帝都市内を守るという話だ。

また、首都高の橋脚を堤防に建てられない話があります。
荒川放水路の左岸は、中土手と綾瀬川・中川放水路で二重になってるので、片方を堤防(防潮堤)ではない扱いとし、そこに橋脚を設置できるようにしたと。
堤防ではない(橋脚がある)方は、堤防が小さい。上平井水門で堤防のラインがクロスするので、首都高はハープ橋でS字になっている。

P.131注9) の補記

都市伝説の中では「地下鉄8・11号線計画」は出てこないはずですが、無視をせず紹介しました。
が、誤解を生むような短すぎる説明になってしまったので、ここに補記します。大変失礼しました。

注9+地下鉄予定地の定説は国道6号線地下。
本稿は川底横河トンネル禁止を前提とする話
から架橋の予定地に押上線旧線跡を加えた。
四ツ木駅前は立石駅高架化後に整備計画あり。

定説である国道6号線地下ルートでは、荒川放水路にトンネルを掘ってはならないとする都市伝説と矛盾します。
本稿は都市伝説を否定せずに話を進めるため、鉄橋で越すルート(予定地)を仮定します。
鉄橋の場合、首都高速との立体交差があるのでホームを行き先別の二層式にできません。線路をクロスさせる距離が必要になります。
鉄橋が国道6号線横では分岐するまでの距離も駅のスペースも取れません。
分岐までの距離を稼ぐ方法として、京成押上線の旧線跡から地下に潜り、平和橋通りの地下を北上して分岐というルートが考えられるということです。
旧四ツ木駅跡には立石駅高架化後に交通広場の計画がありますが、現時点では空き地が続いております。

P.136注14) の間違いの訂正

この撮影場所は現在の奥戸4丁目8番4号付近が正しいです。

住宅地に消えた葛飾の地形(補遺)

東京交通短期大学 研究紀要 第22号、2017年03月発行、にて、脚注の追加説明などをこの号に載せました。
P.127 12行目のおまけ(話が本筋からそれるので書きませんでしたが、おまけで紹介)

海岸線の話で、柴又の江戸川河川敷から発掘された松戸側から続く波食台について書きましたが、この付近には江戸川についてとある説が存在します。
「江戸川人工河川論」です。自然の川が国府台のような地面の高い方へと流れるのは不自然だという説です。
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/tone/index.html
定説では、庄内川の東側に関宿から人工的に開削したのが江戸川(新利根川)の上流部で、下流部は元々流れていた川(放水路を除く)だとされてきました。
これに対し、本来の自然河川(太日河)は柴又(嶋俣里)より西側を流下し、中井堀に近いルートで流れていたとする説です。
小松川境川との関係が気になりますし、興味深いところです。

東京交通短期大学 研究紀要 第22号、2017年03月発行、「住宅地に消えた葛飾の地形(補遺)」に、江戸川区のとある伝承から、太日川は江戸川とは違う河道が考えられることから推定図を載せました。
古代東海道についても考察しております。

関連して、葛飾区水害地形分類図(1988)には、地質の分布状況や旧河道の筋が描かれており資料になりますが、高層マンションが増えている昨今、新しいデータが欲しいところです。

P.130 写真4のおまけ

東京電力亀戸線は、現在では埼玉県吉川市の北葛飾変電所のNo.1から続く送電線ですが、 1924(大正13)年に新潟県津南の中津川発電所から続く東京電燈の上越幹線でした。現在でも当時の鉄塔が残っています。
↑「毎日送電線」さんの2010年鉄塔ウォークなどを参考にしました。
写真4の鉄塔は亀戸線No.111で、右の変電所にNo.112があるはずです。

P.132 ピロティについて

今年(2016年)、ル・コルビュジエ作の国立西洋美術館(1959年)が世界遺産に認定されましたが、特徴の1つであるピロティ階はガラスで覆われ、建物内部となってしまっています。
ピロティ構造の建築物は、ファミリーレストランでもみられますが、モダニズム時代の建築であることが重要です。

葛飾区役所庁舎(1962年)は、全く有名ではありませんが、モダニズム時代の建築でピロティ構造になっております。
現在の葛飾区役所庁舎は外壁に白色のペンキが塗られ、ベランダの高欄が交換されて特徴が薄れていますが、竣工当時はコンクリート打ちっ放しの外壁で、水平基調のコンクリート製高欄でした。
モダニズム建築であり、かなりル・コルビュジエ風にも見えるのですが、専門家からはそのような紹介はなく、葛飾区でのモダニズム建築の例には小菅刑務所が選ばれています。

役場庁舎としては、ル・コルビュジエの弟子の一人、前川國男の世田谷区役所(1959)や、同じく弟子の一人、坂倉準三の羽島市役所(1959)よりも、佐藤武夫の葛飾区役所(1962)の方が、ピロティの特徴がわかりやすいと思います。
本稿では、葛飾区役所のピロティ階についても簡単に解説しております。

その他の資料

筆者は入手していないのですが、『近代建築 1961年5月号』にも葛飾区庁舎について何らかのことが載っているようです。

ロケ地巡り(聖地巡礼?)(今回の研究ノートでは書いておりません)

P.130 写真5 で紹介している「荒川上水鐵管橋」のシルエットが映る映画を紹介します。
当時の荒川放水路の土手の状態がわかります。
松竹映画「朝を呼ぶ口笛」 1959年(昭和34年)

映画のエンディングで、主人公が朝刊を持って走っていきます。
この時、現在で言う八広中央通り、右岸堤防と映し、荒川上水鐵管橋(現在は河底横過トンネル)のシルエットで「終」です。
ちなみに、
映画の始まりは、荒川駅(現在の京成の八広駅)から上流側にある新四ツ木橋(現在の四ツ木橋)のシルエットが映る場面からのスタートです。

他、中川の土手と貸しボート屋、「本奥戸橋」(旧橋・架橋位置は同じ)も映ります。
京成タウンバスの奥戸車庫には、映画でも映っていたバスの入る車庫がつい数年前まで残っていました。

『かつしか まちナビ 第9号』(平成21年03月15日)葛飾アクティブ.com に寺島玄先生が寄稿した『中川「七曲り」紀行』の一文からこの映画のタイトルを知り、DVDを購入しました。
他の方々からもロケ地研究が発表されています。『木根川の歴史3 わが町の歴史と文化』に黒沼雄一先生が投稿した『「朝を呼ぶ口笛」とその時代』のP.71 にあります。
ネットにもロケ地研究が発表されています。『荒川土手と自転車+映画』
上記サイトを読むと、この近辺で他にもロケが行われています。『下町の太陽』です。

その『下町の太陽』と、『男はつらいよ 映画第一作』には、京成曳舟駅の押上側にある踏切と、松栄堂模型店が映りますが、その店の前の道路が、P.128 図1の鶴土手道から続く道です。
写真は2004年に撮影したその踏切です。南方向を撮影しており、左手に曳舟駅がありました。
左の道路が曳舟たから通り(押上4号踏切)、右の道路が(旧)鶴土手道(押上3号踏切)、青い建物が松栄堂模型店です。煙突は曳舟湯。現在高架化と再開発で全て消失しました。

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