このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

 

 

島原鉄道と島原の乱

2008年2月

 

司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの『島原半島・天草の諸道』は、深く印象に残った本の1冊です。

キリシタン文化の流入と弾圧、そして悪政による反乱、そんな多くの歴史が刻まれた島原半島南部には、いつかこの本を携えて行きたいと思っていました。

 

加えて島原半島には、 島原鉄道 という風情あるローカル線が走っています。いつからか自然に、名古屋から寝台特急「さくら」に乗り、諫早〔イサハヤ〕から島原鉄道で島原半島を周遊するという、理想のプランが頭の中に出来上がっていました。

 

そこに昨秋「2008331日島原鉄道一部廃線」の報が耳に入り、家計の事を考えて少し悩みましたが、後からでは実行できない、という結論を出して思い立ちました。

但し節約のため、往復は寝台特急ではなく飛行機に。また『街道をゆく』と同じように、半島を時計回りに巡りたかったのですが、反対回りだと非常に効率が良いので、時間の無いサラリーマンの私は反対回りを採用しました。

 

 


 

 

セントレア発8時15分のANAで長崎空港へ、空港からは10時20分発の長崎県営バスで諫早へ、諫早からは11時35分発の島原鉄道バスで口之津〔クチノツ〕へ向かいました。

海辺の原城を歩く予定のため、長袖の下着にカイロまで付けて防寒対策していたので、飛行機もバスも暖房が効き過ぎて暑いくらいでした。

 

諫早を出たバスは、しばらく内陸を走ってから、島原半島をぐるっと周回する国道251号線に出ます。この海岸沿いの道は、長崎で捉えられた切支丹〔キリシタン〕が雲仙〔ウンゼン〕で拷問を受けるために連行された道なのですが、雲ひとつない快晴の下で海の色は青く濃く、およそ拷問や殉教といった暗い歴史とは対照的な明るい風景が展開します。

 

小浜という鄙びた温泉地を経てからもバスは延々と海岸沿いを走り続け、予定より少し遅れて口之津に着きました。

名前からして天然の良港を思わせる口之津、ここは南蛮文化の入口として長崎より4年も早く開港され、当時は住民の殆どがキリスト教に改宗し、近辺にはコレジョ(大学)・セミナリヨ(中学)といった学校もあったそうです。あの天正遣欧少年使節が持ち帰った活版印刷も、長崎ではなく口之津から入ってきたというから、当時は正に日本のウォーターフロントだったのです。

ただそうした時代も、禁教により30年ほどの短い期間で終息したらしく、面影を残すものはガイドマップを見ても何もないのですが、それでもそんな歴史を知ると、そんな事を想いながら港を眺めたくて、ここを訪れたのでした。

 

 

【左】バス乗り場とフェリー乗り場      【右】ポルトガル船が訪れていた波の穏やかな口之津港

 

 


 

 

さて、国道を挟んで向かい側にある口之津駅から島原鉄道に乗ります。

口之津駅は無機質なコンクリートの駅舎で風情が無くて残念。そして入ってきた気動車もピカピカの車両でまたまた残念です。

昔は確か、独特な色をした国鉄車両が走っていて、いい感じだったのですが・・・

 

    

【左】 道路脇に立つ大きな南蛮人形、その左奥の白い建物が駅舎です。

 

 

口之津発13時27分、席は空いていましたが2駅で終点なので、デッキに立って後ろを眺めました。

 

    

 白浜海水浴場前という駅を過ぎると、最後の1区間は開放的な海辺を走ります。

 

 

加津佐〔カズサ〕着13時32分、島原半島を釣針型に78.5km走ってきた島原鉄道の終着駅ですが、間もなく島原外港から加津佐の35.3kmが廃止になってしまいます。ホームに降り立つと、廃線前だけあって多くの鉄道ファンが写真を撮っていました。

 

コレジョは加津佐にあったらしいのですが、詳細な文献が無いため正確な場所は分からないそうで、ここでも思いを馳せるだけです。

 

    

加津佐駅 前身の口之津鉄道時代から80年の歴史に幕を閉じようとしています。

 

 


 

 

 加津佐発13時57分、乗客は5・6人、駅前のコンビニで買ってきたお握りを車内で頬張って、原城着14時16分。

 

     

海の向こうには天草が見えます。島原と天草の反乱は、この海を挟んで常に呼応しました。

 

 

駅前の国道を東に5分ほど歩くと、山の斜面に原城址と書かれた大きな石碑が現れます。

国道と分かれて緩やかな坂を上ってゆくと、戦死した板倉重昌の碑がありました。人選ミスで派遣されてしまった不運な幕府側の総司令官です。幕府側にも被害者はいたのです。

 

原城は大きな丘陵を城郭として利用しているので、山城のような急斜面がない代わりに緩やかな起伏があります。今は畑だらけとなった城内の農道を、肥やしの匂いを嗅ぎながらのんびり歩きました。丘陵の上まで来ると、眼下には海が見え、遠くには雲仙が一望出来ました。※雲仙とは普賢岳などの山々の総称です。

 

空は相変わらず快晴で、心配していた寒さは全く気になりませんでした。

しかし温暖な九州とは言え、普段はもっと寒いはずです。島原の乱は12月から2月ですから、決起した側にとっても、ここで冬の寒さを凌ぐのは辛かっただろうと思います。

 

  

【左】 原城の丘陵越しに、裾を広げた雲仙が見えます。

 

 

 海からそそり立つ一段高い台地が本丸跡で、大きな白い十字架が立っているのが見えます。島原の乱の時は既に廃城となっていて天守閣は無かったというので、十字架以外の光景は大体同じでしょう。

 

 その本丸跡に近づくと大きな谷があり説明版が立っていました。本丸跡を独立させるために作られた空濠〔カラボリ〕で、籠城した2万8千人のうちの半分を占める女性や子供がここに居住したそうです。

 

 

空濠  ここに草ぶきの小屋を作って暮らしたそうです。

 

 

 2月27日28日の総攻撃で、籠城した2万8千人は1名の内通者を除いて女性も子供も皆殺しになります。

 この空濠辺りは、死体で足の踏み場も無いくらいになったのではないでしょうか?

 

 傍らに「ホネカミ地蔵」というのがあります。

 説明版には「骨をかみしめる」→「自分自身のものにする」→「人を救済する」という意味だと書いてありますが、司馬遼太郎は「骨髪」ではないかと言っています。

 

 浄土宗の僧が、敵味方の区別なく供養のために置いた地蔵だそうです。

 

 

 本丸跡に登りました。門のあった場所を抜けてすぐの所に、桜の木でしょうか?根元が石組みで固められ花が飾られていました。もしやと思うと、そこには天草四郎の墓碑と説明版がありました。広く名が知られた天草四郎ですから、もっと派手なお墓を想像していたのですが、ここでの祭られ方は変に俗っぽくなくて、しみじみと思いにふけることができました。

 

 

【左】 天草四郎の墓  【右】 本丸跡 別の所に銅像がありました。

 

 

 海に面したフェンスに、白洲という浅瀬が300m沖合いにあると書いてありました。『街道をゆく』でも取り上げていて、リソサムニュームという珍しい植物の繁殖している場所で、世界的にも珍しいそうです。

 白いと言われればあの辺りが少し白いかなあ、と無理に納得していたのですが、後で違う方向の沖を見たら明らかに白い部分があって反省しました。

 

 

繁殖している時は紅く、死んで沈積すると白くなる、珊瑚のような植物(珊瑚は動物)だそうです。

 

 

 島原の乱の本質は、宗教一揆ではありません。

 この地に切支丹が多かったのは事実ですが、豊臣政権以来の禁教で、志の弱い多くの人は(本心はともかく)仏教に改宗し、志の強い一部の人は、その教理に基づいて殉教という道を選択したので、禁教に対する宗教的な反乱は起こっていません。

 乱の本質は、重税と刑罰に追い詰められて、生存が絶望的となった人間の、このまま死ぬよりは、という最後の行動だったのです。

 

 蜂起の段階で宗教色はなかったのですが、一揆が形成されるにしたがい、結束のためもあって天草四郎のような象徴を作り出し、宗教色を強めていくのです。

 一方の幕府にとっては、島原の乱を宗教一揆とした方が、禁教政策にも都合が良かったので、その後も宗教一揆とする見方が広がってしまうのです。

 

本丸跡からの眺め

 

 

 島原の乱が勃発する年は、前々から凶作が続いていたこともあって餓死者が多く出たそうです。租税を納めない家は、妻や娘が火あぶりにされたり、籠に入れられて川に投げ込まれたりしたそうです。

 「ここまで追いつめられれば、魚でも陸を駆けるのではないか。」という司馬遼太郎の言葉を思い出しながら、死に向かうしかなかった人々の無念さを想うのでした。

 

 


 

 

 再び島原鉄道にて原城発16時07分遠くに眺めていた雲仙がだんだん角度を変えて近づいてきて、深江辺りで普賢岳が視界いっぱいに立ちはだかりました。新しそうな家が多く、渡る川の護岸もきれいで、この辺りが1991年の火砕流の被害地だった事が分かりました。

 列車基地のある南島原で数分停車して連結作業を行い、17時06分島原に着きました。

 

 駅の近くのビジネスホテルにチェックインし、夜は町に出て島原名物という具雑煮を食べました。

 

 

 翌朝はまず鉄砲町に行きました。鉄砲を主力とする徒士〔カチ〕の住居が多かったのでそう呼ばれています。

 道の中央には水路が走り、水の流れるチョロチョロという音が気持ちを清々しくします。水は2km離れた熊野神社からの湧き水で、朝晩は生活用水として流され、昼は流れを変えて農業用水としたそうです。

 

 

鉄砲町では、この水路のことを川と呼んでいたそうです。

 

 

 その鉄砲町に、3軒の士分〔シブン〕の住居が武家屋敷として無料で公開されています。9時の公開時間に訪れて、まだ朝日の差し込む武家屋敷を見学しました。

 徒士は下士で知行(領地)を持たないのに対し、士分は上士で七十石以下の知行を持つそうです。

 

    

敷地は90坪、住居は25坪ほどだそうです。

 

 

 それから松倉重政の 島原城 に行きました。

 島原は4万500石とも4万3000石とも言われますが、4万石以下は城を持つ資格が無く、陣屋になるそうです。つまり城持ちの資格としてはギリギリの身分で、不相応な立派過ぎる城を築いたのです。

 おまけに幕府には、実質経済力を無視して自ら10万石の賦役(課せられる労働と上納金)を要望し、結果的には6万石の賦役を負担したというのですから、この松倉重政という人間の見栄のためだけに、想像を絶する負担が民衆にのしかかったのです。

 

原城の石も使われた島原城

 

 

 また松倉重政は、切支丹は枝葉、宣教師は幹、根はフィリピンのスペイン人と考え、フィリピン攻略を計画していたそうです。高い石垣や5層もの天守閣だけでなく、城内には33棟もの櫓を作り、おびただしい火器を蓄え、船に至っては80隻も保有していたそうです。

 幕藩体制における松倉重政の保身と栄達のために、民衆は極限まで搾り取られたのです。

 

 

 【左】 もう梅が咲き始めていました。    【右】 天守閣から望む島原の町と眉山

 

 

 そんな民衆の血で築かれた城を後にして、次は市内を散策しました。

 島原市内には、湧き水の源泉が60箇所もあり、そのいくつかを巡る順路が整備されています。

 

  

【左】 湧水庭四明荘                       【右】 鯉の水辺路

 

 


 

 

 この旅に出るにあたり、島原を旅した友人から、 土石流被災家屋保存公園 という所に行く事をを勧められました。

 町から少し離れているので路線バスで行ってみました。

 ドライブインに併設されたそこは、被災家屋をありのまま、そのままの姿で残すという、見る価値のある公園でした。

 

  

平均して3m程埋まっているそうです。

 

  

屋内外で11棟が保存されています。

 

 

 深江駅から島原鉄度に乗り、帰路につきました。

 思えば深江から島原外港間は、普賢岳の火砕流で不通になり、5年掛かってやっと復旧したのに廃止になってしまうのです。

 何とも残念でなりません。

 

  

【左】 有人駅の深江駅                   【右】 普賢岳と眉山の車窓

 

 

 


 

 

 

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