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☆軽井沢のはずれから横川へ (実行日:2001年7月3〜4日) 小さな旅日記目次へ トップページへ
7月のはじめ、あるセミナーに参加のため軽井沢(信濃追分)に出かけていたが、その行き帰りの風景や風情?などを綴ってみようと思う。
![]() | しなの鉄道の信濃追分駅に最終電車で到着した。この駅はJR、さらには国鉄時代から何回も乗り降りしていてすっかりお馴染みなのだが、軽井沢というリゾートの元祖のような町にある駅としては不思議なくらい駅および周囲の風情が変わっていない。到着時にはもう夜の11時を過ぎていることもあって駅は深閑としていた。駅舎に掲げられた駅名の入った看板も昔のままで、駅名標の一部がしなの鉄道の仕様になっている程度の違いであった。自動販売機の明かりのみが明るい。セミナー会場はここから闇の中を歩いて20分ほどである。 | |
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翌日、セミナーが解散した後、車や新幹線で帰る面々と別れた後、ふたたび信濃追分駅へ行く。駅近くの道から浅間山が真正面に眺められるのは眼福である。 |
その後、中軽井沢駅へ移動し、街並を歩く。ここは軽井沢や信濃追分駅と異なり、宿場(沓掛)に近いこともあって駅周辺の街並は軽井沢よりも発達している。ただし新幹線が軽井沢に停車し、中軽井沢から特急の発着がなくなったためか、やや勢いが感じられなくなってしまったのは惜しまれる。それにしても軽井沢だというのに何とも暑い。もっとも途中で見かけた道路上の温度表示で「30℃」となっていたから、これでは浦和はさぞ暑いことだろう。
さらに1駅、軽井沢駅へ行き、もう何度も見てはいるものの社会情勢を探る意味で(?)旧軽井沢へ足を向ける。まだ7月初めでもありさすがに人は少ないが、もう店はかなり開いている。いつも思うのだがこの旧軽ロータリーから旧軽銀座へ入るところが妙に道が狭くなっていて危なっかしい(下の写真左)。もっとも夏の雑踏もほんの数百mなので、ちょっと上に行くとたちまち別荘地帯、そして峠道へと続いていく。さすがに林の中は涼しい。軽井沢初の別荘(下の写真右)が残っていたことにはじめて気づく。 | |
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軽井沢駅へ歩いて戻り、夕方のJRバスで横川へ下ることにする。このバスはすでに2度ほど乗っているが、最初はほぼ満席、2回目もかなり席が埋まっていたのだが、発車10分前に行ってもまだ先客は2人しかいなかった。私の後にもう1人乗ったものの、結局乗客4人で発車した。いくらシーズン前とはいえ、以前は鈍行列車が1日7往復していた需要があった区間なのにこれほどまで少ないとはびっくりであった。やはり乗り換えと時間のロスが嫌われてやむなく新幹線を利用せざるを得なくなった人が多いのだろうか。テープの案内で、夕方なので渋滞する場合がある、と予防線を張っていたが、極めてスムーズに横川まで30分で着いた。
以前来たときも横川の変貌にびっくりしたが、今回はあまりの無残な変わりように言葉がなかった。もちろんこれは私なりの思い入れであって、実際には「鉄道文化むら」などの新しい施設も出来ているのだが、レールが分断されて埋め込まれてしまった様子を見ると胸がいたむ(下の写真左)。駅前広場のほうへ回ると、夏祭りの準備か、やぐらが組まれ、これでもかといわんばかりの万国旗が飾られていて、人がいないせいかかえってわびしさを感じさせた(下の写真右)。それにしてもやぐらの横腹に大きく「おぎのや」の文字があるのはさすがである。 | |
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採算の問題であることは重々承知の上、心情としては鉄道を記念にしてしまうのではなくて、何とか観光路線としてでも横川〜軽井沢を残せなかったのかな、とつい思ってしまう。まだ途中の線路はほとんどそのまま残っている、というのもその気持ちに拍車をかける。ここが廃止されようとしたときも、マスコミなどが「釜飯が買えなくなる」くらいの扱いしかしていなかったのも気になったところ。横川の駅がいつまでも活気を失わないことを願いつつ、釜飯を持って、行き止まりとなった「信越本線」の高崎行きに乗り込んだ。
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