このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
頼山陽(らいさんよう)は、江戸時代後期の儒学者であり、文人でもありました。
安永9(1780)年に大坂で生まれ、天保3(1832)年に京都で亡くなりました。
頼山陽が、生涯をかけて著した「日本外史」は、平安時代末の平氏から源氏、北条氏と続き、
織田氏、豊臣氏、徳川氏まで記した歴史書です。
儒教に根ざした名分論の立場に立ち、尊王思想に基づいて記された書物です。
頼山陽の死後に出版され、爆発的に読まれたそうです。
近藤は、頼山陽に傾倒し、「日本外史」を愛読したそうです。(武士にあこがれた近藤らしいですね)
近藤は、慶応2(1866)年に、日野の佐藤彦五郎へ七言絶句の漢詩を贈っていますが、
その漢詩は素晴らしく見事な書体で書かれています。
近藤は、彦五郎に自分の詩文のほかに、頼山陽の詩文・佐久間象山の書幅も贈っていますが、
近藤の漢詩の書体は、頼山陽の書体と瓜二つ!
近藤は、頼山陽の書風を一所懸命に学んだんでしょうね。
それほど、頼山陽に傾倒していたんでしょう。
漢文って難しいですよね。 幕末の時代も、教養がないと読むことも書くこともできなかったと
いわれています。
著名な文人の漢詩を書き写すことは、当時の流行でもあり、誰もがした(中岡慎太郎とか)
と思いますが、近藤の漢詩は、彼のオリジナルです。
近藤って、勉強家だったんでしょうね。
頼山陽山紫水明処(らいさんようさんしすいめいしょ)
京都市上京区東三本木通丸太町上る東側
頼山陽は、文政5(1822)年に三本木の水西荘(すいせいそう)に移り住み、庭内に別棟の書斎
「山紫水明処」を建てて、晩年の10年間を過ごしました。
ここは、文人墨客の集まる文化サロンのようだったといいます。
頼山陽が、「日本外史」を完成させたのもここだそうです。
丸太町通河原町東入る北側に、このような道標がある
もし、石碑がなかったら絶対ここが山紫水明処とは気付かないと思う。
外観は、まるで民家だ。(いえ、実際にここは民家なのです)
山紫水明処は国の史跡に指定されています。
通常、非公開なのですが、事前に申し込めば、見学可能だそうです。
このような民家が国の史跡!?と思うことなかれ、実は、山紫水明処は鴨川の河川敷から
チョロっと見えるのです。
この藁葺き屋根の建物が「山紫水明処」。 国指定の史跡です。
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