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京成空港線の20年

2年B組 岸 功二

 去る平成10年11月18日、京急空港線が羽田ターミナルに直結し、1日4往復ではあるが、同日から羽田と成田の両空港ターミナルを結ぶエアポート快速特急が運転を開始した。このエアポート快速特急の一方の当事者である京成電鉄においては、日本初の空港アクセス特急『スカイライナー』が走り初めて20年目にあたる。日本初の空港特急『スカイライナー』の20年について簡単に振り返ってみたい。

・第一景 そもそもの始まり〜空港線建設〜

 年々増え続ける空港需要に対応するため、首都圏第二の国際空港が建設されることになり、昭和41年、その地は閣議決定によって“成田”と決まった。昭和44年に新空港への路線延長免許を得て、45年に工事が開始された。長い間、京成線の終点であった京成成田駅から更に東へ、新空港の開港に合わせるため突貫工事によって、2年で7Km余りの新線が建設された。

 新しい終点となる成田空港駅(現在の東成田駅)は、10両停車可能な2面4線の地下駅で、1・2番線は『スカイライナー』専用、3・4番線は一般列車用となっていた。また、都心側のターミナル駅である京成上野駅も半年間営業を休止して大改良工事を施行、10両編成が停車可能な2面4線の新しい“日本の玄関口”となっていた。

 

・第二景 AE形特急車の誕生

 昭和47年2月、京成の座席指定特急の4代目にして日本初の“空港特急”となるAE (Airport Expressの略)形が、その勇姿を京成線上に現した。AE形は、T形ワンハンドルマスコンに定速運転装置を備えた界磁チョッパ車であった。空港方から、AE1+AE2+AE3+AE8+AE9+AE10で中間車が欠番となっているのは将来10両編成化した際にナンバーがそろうようにしたためである。AE形は同年度末には6連5本30両が待機していた。

 

・第三景 京成上野〜京成成田間の特急でデビュー

 開港の見通しが立たないため、昭和48年12月30日から一部の編成を使用し、京成上野〜京成成田間の特急“開運号”の代替で走り始めることになった。同年12月16日にダイヤ改正が実施され、改正日からAE形を使用する予定で京成上野〜京成成田間のノンストップ54分30秒でスジが引かれていた。

 この態勢が4年あまり続き、ようやく新空港が見えてきた。

 

・第四景 悲劇のヒロイン…AE車

 開港は遅れに遅れ、昭和53年3月になってようやく開港できることになった。成田空港は、高速道路はともかくとして、新幹線はいまだに実現しておらず、それにつけて京成が脚光を浴びるようになり、日陰の存在から一気に表舞台に出るようになった。この結果、度重なる列車妨害が発生することになった。

 5日未明に宗吾検車区19番線に留置中のAE車に過激派の魔の手がおよびAE29が全焼、編成を組んでいた4両を半焼、さらに21番線に留置中のAE49も類焼した。しかし、ターゲットは「スカイライナー」だけにとどまらず、路面上から線路にトラックを落下されたり、トロッコに小型トラックを載せて炎上させて、空港線のトンネルに突入させるなど、開業前後を中心にさんざんな目に遭っている。

 

・第五景 空港特急スタート

 昭和53年5月21日の午前6時30分、「スカイライナー」の初列車、大げさにいえば日本初の空港特急が京成上野駅をスタートした。「スカイライナー」は当初全列車がノンストップで、ほとんどの列車が京成上野〜成田空港を60分で結んでいた。成田参詣月の5月には、3日から31日まで、京成成田に臨時停車し、9月からは一部車両をファイアーオレンジ色に統一した。58年10月1日の改正から、上り列車が日暮里に停車するようになり、AE形に新塗装が現れた。

 

・第六景 AE100形デビューとAE形8両化

 海外旅行ブームにより、平成2年6月に「ニュースカイライナー」AE100形が登場した。

 さて、AE形の8連化工事が開始された。デビューから20年近く過ぎているため、中間車は新製せず、現有車両を組み替えて8連化することになった。

 

・第七景 空港ターミナル乗り入れ

 平成3年3月19日、JR東日本と共に第三セクターの成田空港高速鉄道へ乗り入れ、いよいよ新空港ターミナルビルに直結した。この日から、従来A駅と仮称されていた第一ターミナルビル直下の新駅が「成田空港」を名乗ることになり、従来の成田空港は「東成田」に改称された。

 

・第八景 AE形さよなら運転

 AE100形は1〜2編成の増備が続き、それにつれてAE形は順次運用を離脱していった。まず、AE1〜10編成が引退、足周りを利用して通勤車3400形が登場した。また、AE車の引退時期と3400形への更新時期にはズレがあり、この間、AE車は東成田駅に疎開留置されていた。

 平成4年にAE100形が運用上必要な6編成となり、AE形は指定運用以外では使用することが出来なくなり、活躍の場がだんだんと狭まっていった。そして、平成5年6月27日。この日は日本初の「空港アクセス特急スカイライナー」AE形が、乗客を乗せて走行する最後の日となった。さよなら列車には、最後まで残ったAE61〜AE70編成が使用され、“さよなら”の特製ヘッドマークも掲出された。宗吾車庫入庫後では撮影会も行われた。同年7月から、通勤車はアクティブシルバーに塗色を変更した。

 現在では、宗吾車庫に200形、3000形とともにAE61が保存されている。

 

参考文献・・・『鉄道ファン』98年11月号(京成電鉄 85年のあゆみ)
        カラーブックス 日本の私鉄『京成』

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