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今年の証言者は鄭来さん再登場(予定)
2010年12月4日(土)かながわ県民サポートセンター 15:00開始
アジアフォーラム横浜の今年の証言集会にお招きするのはマレーシアの華人、鄭来さんを予定している。鄭来さんには1999年にも証言していただいたが、11年後の再証言となる。
マレー半島全域に及んだ華人虐殺は、1942年(昭和17年)2月15日のシンガポール陥落直後に始まった。当時マレー半島各地に住む華人の団体は華人住民から義捐金を集め、中国政府に献金していた。そこで日本軍は「敵性華僑狩り」と称し、軍の組織的行動として、「老若男女ヲ問ハズ徹底的ニ掃討」した(第5師団歩兵第11連隊第1大隊命令、1942年3月2日)。
第11連隊は広島の部隊である。
7歳の鄭来さんが住んでいたネグリセンビラン州ペダス南部のゴム園が被害に遭ったのは3月5日のことだ。連行されて正座させられると、前にいた日本兵が乳児の弟を母親から取り上げ、何と空中に放り投げ、もう一人が銃剣で刺し殺したと言う。自身も後ろから背中や脇腹を刺されたが、何とか生き残った。戦後はゴム園で働き、やがてゴムの接ぎ木技術では州内でトップクラスになり、「グリーンフィンガー」と呼ばれるようになる。孫が30人以上いて、「今は幸せだ」と言う。
掲載した2枚の写真は2003年の「高嶋ツアー(*)」で慰霊碑を訪問し、お話を聞いた時のものである。日本の戦争責任や戦後補償の問題が遅々として解決に向かわない中で、鄭来さんは何度となく来訪者や日本に招かれた集会で体験を語っている。日本の状況が期待する様には変わらぬ中で、諦めたり、嘆いたりすることもしばしばだろうと推察されるが、その「語る内容の骨子は明確で、揺らぐことはない」とは高嶋さんの言。7歳の時に直接の被害に遭い、生活に追われながら日本に向かい合って生きざるを得なかった75年の人生。鄭来さんの被害状況や現在の心境を改めて伺い、多くの人々にも聞いてもらい、私たちがすべきことを改めて確認したいと思う。
(*)高嶋伸欣さんがガイド下さる戦跡スタディツアー。申込熱烈歓迎。
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