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橋本和正さんの証言

12日が叔父の命日

広島から来ました橋本和正です。今年の818日からマレーシアへの「戦争の傷跡を訪ねる旅」に参加し、その時にこの証言集会に参加してほしいと要請を受け参加することになりました。

林さんの話を聞いていて、スンガイ・ルイ村の時より胸の内が爆発したような気がします。子どもの頃から叔父の橋本忠が戦犯で処刑されたことは、父や叔父や祖父母から聞いていました。1948年の12日にイギリスの対日戦争裁判で処刑されていますので、正月に親戚が集まり仏壇の前で法要をしていました。なんで正月にやるのかと思っていましたが、叔父が12日に処刑されたことで祥月命日の正月に法要をしたのだと思います。

そうした時の叔母や叔父たちの話の中に、クアラルンプールやネグリセンビランという名前は耳に残っていなかったが、パリティンギ、セレンバン、バハウという言葉は耳に残っていました。その地名との繋がりは分からないままずっと来てしまいました。広島市に戦争裁判で亡くなった人たちの慰霊碑があり、新緑の頃、毎年慰霊祭が行われていて、それに祖父母に連れていかれたという経験もありました。

フランキー堺が主演した「私は貝になりたい」というテレビドラマを家族そろって一生懸命見たんです。叔父が戦犯で処刑されているから見るんだろうなと思っていました。

つい最近まで、私は叔父がなぜ戦犯として処刑されたのかという事実関係を知ることができませんでした。

『裁かれた戦争犯罪』で叔父のことを知る

2004年の年末に『裁かれた戦争犯罪』(林博史著)の本を見て初めて知りました。イギリスの戦争裁判の記録が載っているというこの本をネットで検索して手に入れました。中に橋本少尉の事件が載っており、これはもしかしたら叔父のことではないかと思い、林先生にメールを送りました。「すでに1980年代に実名を挙げて中国新聞が取り上げていたので、実名で書かせていただいた」と林先生は言われました。裁判記録も持っているのでお貸ししますよということでしたので、お借りして読みました。

憲兵隊での取り調べをそのまま書いたらしい、読みづらい裁判記録でした。ところどころに橋本忠の署名が入っていたので叔父の裁判記録だろうと思いました。

文献をいろいろ当たり、林先生の『華僑虐殺』やマレーシアの中華大会堂が出したネグリセンビラン州の日本軍による住民虐殺証言集『マラヤの日本軍——ネグリセンビラン州における華人虐殺』などを読んでいきました。そんな中で、広島の郷土部隊・歩兵第11連隊がネグリセンビラン州で中国系住民を大量に虐殺したことを私は知りました。

ネットで検索して様々な文献にあたる中で、スンガイ・ルイ村の事件の全容が分かってきました。大虐殺の命令書なども出てきて、19422月から3月にかけて日本軍の作戦としてこのような事実が行われたことを知りました。

スンガイ・ルイ村住民虐殺に係わっていた叔父

そんな中で一番気になったのはスンガイ・ルイ村の事件の中身でした。

スンガイ・ルイ村の事件の概要を説明させてください。

ネグリセンビラン州のイロンロン、カンウェイ、パリティンギの華人集団虐殺事件は19423月に集中しています。368名が虐殺されたと記録されているスンガイ・ルイの事件は、1942830日に起きました。

「陣中日誌」によると、前の日にマレー系の自警団の男が中国系抗日分子の手により誘拐され殺害され、バハウの警察に訴え出たということです。翌日、バハウの警察がスンガイ・ルイ村に捜査に行くので、日本軍にも一緒に行って応援してくれという申し出を警察側はしました。ところが日本軍は陣中日誌にもあるように「明日を期して抗日分子を掃討せよ」となったわけです。

翌日、叔父がバハウから鉄道に乗ってスンガイ・ルイ村の駅に着きました。スンガイ・ルイ村の駅はプラットホームがなかったそうです。駅の周辺にマレー系の人と中国系の人が住み分けながら一緒に住んでいる集落でした。中国系の人々は約400人いました。そういうところに叔父たちは出かけていき、「マレー系の自警団の男を誘拐殺害したのは誰か、見た者はいないのか」と一応捜査はしたけれど、新たな証言が見つからないまま、帰りの列車の時間が近付いてきたわけです。

「こいつらは共産党分子だ、処分しなければならんと思う」とたぶん私の叔父が言ったのだと思いますが、インド系の警察官は「容疑者は裁判にかけなければいけませんよ」と忠告したそうです。「責任は自分が取る」と言って、叔父は部隊を使って住民の虐殺を始めたのです。それが今、林さんが証言したことだと思います。

殺害方法はどこの住民虐殺も同じようなパターンだと思いますが、そこでは、男は5人から10人ぐらいずつ縄で縛り、ゴム園などの繁みに連れていき、後ろから銃殺または銃剣で刺し殺すやり方でした。

これはムヒディンさんの証言にもありましたが、女や子供は燃えやすい家の中に押し込め、外から機銃掃射をして、火を放つというやり方でした。

当時、マレーでも油は手に入りにくいものでした。それなのに日本軍は始めから油を用意してきたようです。始めからスンガイ・ルイ村を完全に掃討する目的で日本軍は出向いて行きました。捜査は型通りしたけれども、報復的に虐殺をしてバハウに戻って行きました。それからクアラピアの中隊に戻って報告をしました。その報告が830日の「陣中日誌」(資料2)です。「不良分子82人殺害し、ピストルを何丁か押収した」程度でした。これは共産党分子だと決めつけて殺して帰ってきたわりには、300何人も殺したとは報告してないし、押収ピストルもわずか一丁ぐらいです。「陣中日誌」そのものも数字を小さく書いているわけです。

このような事件が起こって、その現場にいた私の叔父橋本忠が、戦後裁判にかけられることになりました。

偽装病院船橘丸事件で捕虜になり帰国後、逮捕される

私の叔父は終戦間際の83日頃に、オーストラリアの北の方に歩兵第11連隊は転戦し、オーストラリア軍が島伝いに反撃してくるだろうと、待っていたが来ませんでした。そこに終戦間際までいました。

偽装病院船橘丸を仕立ててシンガポールまで戻ろうとしました。その橘丸に載せてあったのが「陣中日誌」でした。それがアメリカ軍に押収されました。1983年ごろに返還され、防衛省の資料室に保管されていました。林先生の『華僑虐殺』はこの日本軍の公式文書である「陣中日誌」と現地の華人の証言を突き合わせて、どういう事件かをまとめた本です。また、林先生は裁判記録も調査されて『裁かれた戦争犯罪』をまとめました。この本の中に(叔父のことを)初めて見つけてびっくりしました。裁判記録は普通のものではないので、この事実は受け止めなければならないと思いました。そしてこういう活動を始めました。

叔父は病院船事件で捕虜になり、フィリピンで終戦を迎えました。11月の中旬ごろに本籍地の広島県佐伯郡廿日市町(現在は廿日市市)に戻ってきました。橋本の家族は朝鮮(韓国)に行っていましたので、韓国に帰るわけにはいかなかったので、本家の橋本家に戻りました。復員してくる人たちから橋本は追われていると聞かされます。隠れるように北広島町の若林開拓団の一員として入っていました。帰国していることが分かってしまい、逮捕され、巣鴨の刑務所に入れられました。その後、クアラルンプールに送られ、そこの憲兵隊で取り調べを受け、1946年の10月にイギリスの戦争裁判で死刑判決を受けます。戦争裁判は一審なのです。叔父は1948年の11日に死刑執行の知らせを受け、遺書を残しています。

遺書には残念ながら、「当日確かにスンガイ・ルイ村に行ったが、住民を拘禁したり、虐殺したことはない。中国の抗日分子と戦闘になり、家屋に火が入り、爆薬などが爆発した」というように裁判で自分を弁護した内容が書かれていました。しかし、裁判記録には、橋本が全部責任をとるからという証言まであり、たくさんの証言が集められていたので、叔父は死刑判決を受けました。

以上が叔父の事件の全体像です。

私たちの「戦争責任」とは

私は、広島市の職員として労働組合に参加し、組合の委員長までさせてもらいました。広島を原点にして被爆を語り継いで平和運動をしてきました。核兵器廃絶にも取り組んできました。その時一番気になっていたのは、被爆を原点にというのであれば、その前の広島の歴史を知らねばならないということでした。

日清戦争のときには、山陽本線を広島まで延長しました。広島は軍都として出撃基地になりました。また、日清戦争のときには、明治天皇が広島に来て大本営の中で、帝国議会まで開かれるというようなこともありました。そのように広島は軍都として発展してゆきます。そして、日露戦争、第1次世界大戦、第2次世界大戦の出撃基地、兵站基地となってゆきました。

このような広島の第5師団に属する歩兵11連隊は広島で編成された部隊です。

私の叔父は、朝鮮で生まれ、朝鮮の旧制中学を卒業し、将校になりたいというような軍国少年だったそうです。補充兵として入り、まだ十分調べはついてないのですが、熊本あたりの下士官養成学校で訓練を受けたようです。そして広島の部隊に編成されて、中国やベトナムにも行き、マレー半島上陸作戦にも参加しています。シンガポール上陸作戦にも参加し、その時の命令でマレー半島に戻り、中国住民の粛清作戦に3月から始めました。

その事実を知った時に私たちの責任は何だろうかと考えました。

「責任」とは、英語で「レスポンスビリティ」と言いますが、その語源は「レスポンス」で反応する、応えると言う意味です。戦争で被害を受けたとマレーシアの方々が言っているときに、それに対してどう応えていくのかが、私たちの戦争責任だと思います。

広島は世界の都市と友好の縁組をしています。それも戦争に関連のある都市と姉妹都市になっています。重慶、ホノルル、ドイツのハノーバー市などです。広島市は戦争の被害と結び付けた友好都市縁組をしています。

マレーシアと日本、ネグリセンビラン州と広島県、セレンバンと広島市、戦争の始まりと終わりということで友好の縁組ができると良いと思います。

声高に、戦争ができる国づくりを公約に掲げて総選挙が闘われようとしていますが、そのような勢力が力を持つのを許してはならないと思います。そういった思いも含めて報告とさせていただきます。
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