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「祖国を失って・タイ人・瀬戸正夫の人生」(東海テレビ制作)書き起こし |
戦争で祖国を失った“日本人”・タイ在住瀬戸正夫さん壮絶人生 タイ人として波乱の人生を送ってきた83歳の男性を取材しました。バンコクの中心部から少し離れたところに、通称ワット・リアップという寺院があります。その境内の一角にある、昭和10年に建立された納骨堂にはこの地で亡くなった日本人の霊が安置されています。春の彼岸を前に、母親の供養に訪れている人がいました。ヴィワッ・シータラクーン、日本名 瀬戸正夫さん、83歳です。 タイを代表する観光地プーケットは、戦前からスズ鉱山の労働者の町として、多くの中国人が働いていました。瀬戸さんは、この島で昭和6年5月23日に生まれました。父は医師でしたが、事情があって瀬戸さんは別の女性に育てられました。瀬戸テルさん、本名田島テルさんです。この年、満州事変が勃発。次第に排日運動が高まり、プーケットに住む日本人は生活に危険を感じてきます。
8歳の時義務教育の知らせを受け、バンコクに移り住みます。 「日本人学校に行ったときは、全校27名しかいませんでした。天皇陛下は神様である。だから僕たちは神様の子どもであると、教わりました」 やがて昭和16年12月8日、瀬戸さんが10歳の時、太平洋戦争が勃発します。 「その頃から軍事教練が厳しくなりました。銃の担ぎ方とか、歩き方。女の子たちは看護婦の見習いとして、包帯の巻き方、傷の手当の仕方を習いました。もしいざというときには、男子は、切腹の仕方を習いました。女子は手りゅう弾で自決する方法を習っていました」 昭和20年8月15日、終戦を迎えます。終戦とともに在留邦人3500名は、バンコク郊外のバーンブアトーンの収容所に収容されました。電気もない、水道もない。食べ物は豊富にありました。父はスパイ活動をしていたため戦犯として、シンガポールのチャンギ刑務所に収容されました。このとき父はすべて身の回り品などを没収されましたが、ただ一つ身につけていたものがありました。幼少時代の瀬戸さんの写真でした。父は医師ということもあり、周囲の人たちの嘆願により、2年間の服役の後に釈放され、帰国の途につきました。終戦の翌年、昭和21年、大半の日本人は引揚げ、船で帰国しました。タイで生まれ育ち、日本を知らない瀬戸さんはタイ残留を強く訴え、希望がかないました。 昭和26年、日本は講和条約を結び、バンコクの在外事務所は、在留邦人の身元確認のため、戸籍謄本の提出を求めてきました。謄本を知らなかった瀬戸さんは、大日本帝国総領事館が発行した、日本人であるという証明書を提出しましたが、国籍はもらえませんでした。瀬戸さんは日本にいる父へ戸籍謄本を送るよう連絡しました。このころ瀬戸さんは、母テルが育ての母であることに気が付いていました。しばらくして父から手紙と共に戸籍謄本が届きました。そこには瀬戸正夫さんの名前は記載されていませんでした。戸籍に載ってないことを知った瀬戸さんはショックのあまり自殺を思い立ち、翌日バンコクで最も高いところにあるサケット寺院へ向かいました。 「僕はがっかりして、もう死しかないと思いました。涙を流しながら、いろんな景色を見ていましたら、空のかなたから、白い綿のよう雲がふわふわと浮いて、こちらに向かってきました。小鳥がピィーピィーチィーチィー鳴いていました。正夫、死んじゃだめだよという声が聞こえたような気がしました。それで自然に慰められ、助けられたような気がして、よし生きようという気持ちを自然から頂戴しました」 このころから瀬戸さんの実母探しが始まりました。昭和35年12月、ある新聞に「ドクター瀬戸久雄の家族を知りませんか」と広告を載せたところ、情報が寄せられ、実母がブーケットで生きていることがわかりました。 そして昭和36年2月17日、瀬戸さん29歳の時、実母と念願の対面となりました。 「母に初めて会った時、遠くに立っているお母さんの姿を見てすぐにわかりましたし、お母さんも一目で正夫だと分かったと言っていました。その晩は、お母さんの家に泊めてもらいました。夜中にパッと目が覚めたら、お母さんが、僕を抱きしめて涙を流して泣いていました。一生忘れられない出来事です」 そこで瀬戸さんは実母から衝撃の告白を聞きました。 「僕のお父さんは誰ですかと言ったら、ぼくのお父さんは中国人だよと言いました。どっちが本当の親なのか、ぼくには未だにはっきりしたことはわかりません」 この年、大使館から公文書が届きました。そこには日本人としては認められないと書かれていました。無国籍となった瀬戸さんにとって、それは死の宣告にも等しいことでした。昭和38年、瀬戸さん32歳の時、タイ国籍を取得します。昭和48年、42歳でタイ人女性と結婚、苦難を乗り越え幸せな家庭を築きます。長年、いろいろなアルバイトをしながら生活を支えてきました。昭和42年から日本の大手新聞社のカメラマンとして働き、今も愛用のカメラを持ち歩いています。70歳を過ぎてから自身の人生を綴った執筆活動に力を注ぎ、数冊の本を出版しました。両親と国籍問題に翻弄され、祖国を失った瀬戸さん。苦難の人生について、今その胸に去来するものは。 「自分の人生を振り返ってみて、やっぱりこれは、誰を責めるわけでもないし、誰にも罪をかぶせるようなことは致しません。今になって思うには、自分の運命がそうだったから、誰も恨むことはない」 【「祖国を失って・タイ人・瀬戸正夫の人生」東海テレビ制作(みんなのニュース戦後70年企画・2015年4月15日放映)より要約】 |
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