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2004.12.4

第11回

証言集会

2004年12月4日(土)14時30分〜 かながわ県民サポートセンターにて

証言する呉溢興(ウッ・ヤッヒン)さん(中央)

今も消えない香港の戦争の傷あと〜呉さんの証言

 今年、68歳の呉溢興さんは、背筋のピンと伸びたがっしりした体格の方である。
水泳で体を鍛えているということで、大変お元気そうだった。来日は初めてではないので、リラックスしたごようすではあったが、証言のときには、かなり緊張したようだった。姪の田中さんが通訳をしてくださり、また、和仁さんが質問形式により証言を引き出してくださったことにより、実のある証言集会になったように思う。
和仁:日本占領中、誤さんは8歳の呉さんは日本兵による処刑の場面は見たことがあ りますか?

: 日本兵が中国人の首を長い刀で切り頭が落ちるのを見た。物陰から友達と見ていた。

和仁:呉さんのお父さんが経営していた製麺所に来た日本兵のようすを話してくださ い。

: 店に入ってきた日本兵がタバコと麺を金を払わず持っていこうとしたので店番を していた兄が金を払うことを要求すると、兄の頭を店においてあった「ソロバン」で殴って逃げた。兄は血だらけになった。命の方が大事と思い泣き寝入りをするしかなかった。

百円の日本軍票   今も5億4千万円の軍票が索償協会会員の家庭には保存されているという

和仁
:占領中に香港ドルを日本軍票に換えさせられた呉さんの生家の製麺所は倒産した。戦後、軍票は流通禁止になったからだ。お父さんは失意のうちになくなり、「この軍票を日本に兌換してもらえ!」という遺言をのこして。その後、呉さんは家族とともに、中国広東省のお母さんの実家に疎開する。ひとり、香港に戻った呉さんはどうされましたか?

: 軍票をトランクに詰めて香港に来た。製麺所に勤めた。新聞配達もやった。メッキの技術を学び、金属加工の町工場を経営した。

和仁:索償協会の会長になったのはどんな気持ちからか?

: 工場も安定していたし、同じ軍票被害者の力になりたかったからだ。
  1993年に東京地裁に訴えた軍票訴訟は、「戦争の被害者としてその被害事実を 認めたものの、日本政府に支払いを命じる法的根拠はない」と言う判決だった。
   
  戦争の残した問題は多い。戦争さえなければこんな悲劇は起こらなかった。
  今日軍票のことを日本の皆さんに話せたことはよかったと思う。日中友好のためにがんばりましょう。

     軍票を張り合わせた展示物を前に 証言者の呉さん(中央)

i[日本鬼子]〜石田甚太郎さんの講演


                          講演する石田甚太郎さん

i石田さんは「日本鬼子」(現代書館・石田甚太郎著)の著者である石田さんはその中のいつかの香港の人たちの戦争体験を例にを挙げながら話を進めた。

梁義生さんの戦争体験
1942年、香港ドルの切り下げがあるといわれ、兄は20万ドルを籐のかごに入れて両替所に行った。その途中、兄は3人の日本兵に呼びとめられて、兵舎に連行されて戻らなかった。兄の消息を知ろうと兵舎に行って衛兵にメモを渡すと殴られ足払いをされた。革靴で足とひざを何度も蹴られ失神した。何とか家に帰りついたが、その怪我が元で今のような障害者になってしまった。兄は拷問を受けたすえに首を斬られて殺された。兄はまだ30歳の若さだった。
万代までの要求

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香港スタディー・ツアー募集
2004年8月

アジア太平洋戦争の 事実を明らかにする

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