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1995年12月7日 かながわ県民センターにて
証言するマルディエムさん
だまされて「慰安婦」に 1942年(当時13歳、ジョグジャカルタで、 芝居をやる人を捜しているという日本人医師ショウゲンジに誘われて応募した。 医師の検査で応募年齢に達していないと分かったが、他の応募者47名とともに鉄道と船を乗り継いでスラバヤまで行き、24人の仲間とともに南カリマンタンの州都バンジェルマシン郊外のトラワンに連れていかれた。 そこの「慰安所」でそれぞれ個室と日本名が与えられた。その翌日、運営責任者のチカダに軍の病院に連れていかれ、検査を受けた。 まだ13歳だった それから生理の始まる前の13歳で続けて6人も客をとらされたためひどく出血し、辛さのために死んだ方がましだとさえ思った。 客をとったと言ってもお金を貰ったわけではなかった。 昼間は軍人が、夜は民間人が利用した。出血が止まると一日10〜13人の客をとらされた。 1942年から1945年まで3年以上働いた 14歳で妊娠中絶 1943年に妊娠してしまい、中絶をすることになった。麻酔も鎮痛剤もなしの手術だったのでとても痛く体を動かすことが少しもできなかった。 出された赤ちゃんは男の子でまだ生きていた。今でも、子どもを殺したという罪の意識にさいなまれている。 中絶後、3ヶ月の休暇をもらった。連合軍の空襲が始まり、中絶から半月経った頃、トワランに逃げ戻ったトコロ、チカダにレイプされて、体だけでなく心も痛めつけられた。自殺も考えたが、宗教心が強く、自殺は罪だと考えていたので、できなかった。 その後慰安所には第二陣、第三陣が到着した。 ある日突然、日本軍がいなくなり、チカダもどこに行ったか分からなくなった。チカダからは慰安婦をやめて村に帰るときにまとめて支払うと言われたが、一銭も支払われなかった。 日本政府は責任をとって! 日本政府には、3年間働いた報酬に着いての責任を持ってもらいたい。体をずいぶんわるくした。 友達のほとんどが子どもを産めなくなったことの責任も持って欲しい。 50年以上前の話だけれども決して忘れることができない。 二度と戦争はしないで! 若い人たちに言いたいのは、二度と戦争をくり返してはいけないということ。 本当に戦争が憎い。戦争によって犠牲になるのは何の力もない人たちだからだ。 |
ビデオ 「マルディエム 彼女の人生に起きたこと」 を作った 海南友子 オフィシャル・ウェブサイト |
元「慰安婦」マルディエムの告発
{朗読と短歌} |
アムネスティ・インターナショナル
ニュース・リリース
〈60年たってもまだ待っている〉
05.10.28
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