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アジアフォーラム横浜
オーカンポさんの体験を聞き、石田甚太郎さんとフィリピンでの住民虐殺を考える
ーワラン・ヒヤ(人でなし)とならないためにー
この集会は2002年2月6日
かながわ県民センターで行われました
ルソン島最大の湖ラグナ湖畔の町、ロスパニオスに住む歯科医スージー・オーカンポさんは6歳のときに両親・兄弟・祖母・叔母の8人全ての家族を日本軍に殺された。ご自身は4ヶ所を銃剣で突かれたが奇跡的に生き延びた。
アジアフォ-ラム横浜では昨年夏に石田さんのご案内でルソン島南部を巡るスタディ・ツアーを実施し、そこで彼女に出会った。辛い体験を淡々と語り、戦争の無意味さを訴える彼女を日本に呼ぼうと考えた。体験・事実・驚き・怒り・罪責・同情・責任・悔悛・役割・連帯。彼女は二度目の来日である。今日、改めて証言をどう生かすかを多くの方と考えたい。
証言 : スジー・オーカンポさん
Dr.Suzy Okampo (フィリピン)
講演 : 石田甚太郎さん
(「 ワラン・ヒヤ 日本軍によるフィリピン住民虐 殺の記録」著者
呼びかけ人
石山久男(歴教協事務局長)、信太正道(厭戦庶民の会)、高嶋伸欣(高嶋教科書訴訟原告)、俵義文(ネット21事務局長)、西野瑠美子(ルポライター),林博史(関東学院大学)、松井やより(VAWW NET Jpan)、渡辺賢二(神奈川歴教協)
(明石書店:フィリピンの日本軍「慰安婦」より)
日本軍は戦争末期に、バランガイと呼ばれる村々の住民100人から2000人をだまして一ヵ所に集め虐殺した。ルソン島マニラ南方のラグナ州、バタンガス州、ケソン州を占領していた歩兵17連隊(藤兵団、連隊長藤重正従)は、戦争末期の1945年1月25日に、『住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ』と命令し、いわゆる『戦場の無人化』作戦を実行した。この作戦において、多くの住民が『ゲリラとみなされ』女性や子どもを含むバランガイの住民が家ごと焼かれたり、銃剣で刺されたり、崖や井戸に突き落とされるなど、残虐な方法で虐殺された。
フィリピンでの住民虐殺は東京における極東軍事裁判でも取り上げられている。ロペス検事は『日本軍占領下において、フィリピンの非戦闘員91、814人の生命が奪われた。この数の中には戦闘や戦場で死んだものは含まれていない』と陳述し、住民虐殺を裏づける多数の証拠を提出した。(大戦中のフィリピン人死者は約111万人。日本兵死者は約50万人。)
6歳の女の子の降りかかった日本軍による加害
日本軍によるフィリピンでの住民虐殺
私の辛い体験は、7歳のとき、ラグナ地方のアンヨスという町で、1945年のある日に起こった。ゲリラを捜して日本兵が家に入ってきた。父と二人の叔父はゲリラに参加していて、家にはいなかった。日本兵は、女と幼い子どもばかりの家族を近くの親戚の家に連行した。その2階にはすでに大勢の人々が、老人も若い人も、赤ん坊も集められていた。そして日本兵が銃剣でみんなを突き殺し始めた。私は意識を失い、気がついた時はあたりは暗くなっていた。私は、母、祖母を呼んだが、返事はなかった。それから私の弟や赤ん坊だった妹が泣き出すと、また日本兵がやってきて、弟と妹を投げ上げて銃剣で刺し殺してしまった。私はまた意識を失い、祖母の声で気がついた。わたしと祖母といとこの3人が生き残っていて、逃げることにした。祖母はわき腹の大きな傷から腸がはみ出ていた。下に下りると父の姉妹が全裸で殺されていて、男たちは柱にくくりつけられて刺し殺されていた。逃げる時、祖母を連れて行くことはできなかった。私たちは、ある家にかくまわれ、私は傷の手当てを受けた。傷は5,6ヶ所、2つは今も背中にある。それからカランバのアメリカ軍施設に送られ、治療を受けることができた。
「どうして私だけ生き残ったのか」「どうして両親と一緒に死ぬことを許されなかったのか」私は自問し、神に問いかけてきた。1989年、石田先生が来て、私は、私の体験を証言するよう説得された。私は話したくなかったし、日本へ行くのが怖かったが、大阪や広島などで話していくうちに、私は気付いた。「どうして神様が私をこの世に残したのか」それは、戦争はよいものではないということを私が人々に訴えることができるからなのだと。それが私の使命で、その使命があるからこそ、私はこうして生き長らえているのだと。話をするのは本当に辛いことだが、戦争をやっても何も良いことはないのだと、若い人たちに十分に理解してもらう必要がある。私が経験したような戦争を子供たちに体験して欲しくない。
私が、「バターン死の行進」を見たのは、6歳のときだった。バターンで捕虜になったアメリカ軍とフィリピン軍の捕虜は、マリヴェレスからサンファルナンドまで、100キロの距離を6日間、食べ物も水もなく、行進させられた。捕虜たちは、傷つき病気に近い状態だった。日本兵らは、彼らを銃で殴り、倒れた捕虜を銃剣で刺し殺していた。捕虜は、サンファルナンドからオドンネル収容所に送られ、そこでさらに多くが死んだ。私の兄もそこにいた。
非常に小さいときに残虐で非人間的な行為を目撃したので、私も私なりのやり方で平和に貢献していきたいと思っている。
〜〜スージー・オーカンポさんの証言を聞いて〜〜
一昨年の夏の現地訪問から2年がかりで準備を進めてきた、今回の証言集会の成功は、集会に参加していただいた方々、また会場にお見えにならなかった方々の協力によるものです。本当にありがとうございました。
日本兵による一家惨殺という辛い体験をスージーさんは,、時に涙を交えながら,しかし明瞭に語ってくださいました。そのスージさんら、フィリピンの戦争被害者の証言を日本に紹介してきた石田甚太郎さんは、日本兵をフィリピン人は「ワランヒヤ(恥知らず)」と呼び、そのことを知ろうとしない日本人は今も「ワランヒヤ」であり、,そればかりか,、今また「ワランヒヤ」になろうとしていると、今の日本、私たち日本人のあり方をするどく問われています。
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