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送されたこと、日本軍が侵略者として略奪、暴行を重ねたことなどが語られました。その時の驚きが、 「瀬戸正夫の人生 上・下」(東京堂書店・瀬戸正夫著)の中に記されています。
父と日本に捨てられて 
 敗戦とともに、瀬戸さんはバンブァトンの日本人捕虜収容所に入れられ,多感な少年期を過ごしました。父親は一人で日本に帰国、置き去りにされた瀬戸さんは、継母に育てられ、バンコク日本人学校で日本人として学びます。しかし日本大使館の非情な対応のため日本国籍を取得できず、国籍のない状態でたいへん苦労をされます。タイ語、英語、日本語をはじめ、プロとなられた水泳、カメラなどすべて独学で習得されました。「父と日本に捨てられて」は、瀬戸さんの当時の状況を書かれた著書の題名です。残念ながら、これは絶版になっています。
2003年証言集会 日本軍はタイとの中立条約を破って侵攻した!

2003年12月6日(土)17時より かながわ県民サポートセンターにて 
                              アジアフォーラム横浜主催

 証言集会に先立ち、12月4日、県庁で記者会見が行われた。
 朝日、東京、神奈川新聞の3紙の若い記者が、メモを取りながら、熱心に質問していた。瀬戸さんや高嶋先生の説得力のある話ぶりにすっかり引き込まれたようだった。次の日の朝刊に、3紙とも掲載してくれた。 

12月4日県庁で記者会見
 左 瀬戸正夫さん、右 高嶋先生

記者会見(12月4日)

証言集会       12月6日

 「真珠湾攻撃と同日 タイ侵攻で犠牲者」 
                              
あす横浜 72歳が来日、証言
 

 
太平洋戦争が始まった12月8日を前に、東南アジアの戦争体験者から証言を聞く集会が6日、横浜市内である。証言するのは、日本人を父に持つタイ国籍の瀬戸正夫=ヴィワッ・シータラクーンさん(72)。「真珠湾より先に東南アジアで戦争が始められた事実は、もっと広く知られるべきだ。自衛隊の海外派遣で、東南アジアでは日本への警戒が強まるという議論も起こしたい」と、主催者側は話している。
 1941年12月8日、日本軍は米国の真珠湾を奇襲攻撃した。この1時間前には英領マラヤに上陸し、北上して独立国だったタイ南部に入った。抵抗するタイ側との間で戦闘になり、大勢の犠牲者が出たとされる。この日のうちに、タイは日本軍のタイ領通過・進駐を認めた。
 日本軍は上陸しただけでなく、民家で金目の物を奪った。いまも南タイでは日本人に対する感情は良くない」
 4日県庁で記者会見した瀬戸さんは、こう訴えた。タイでは今も毎年12月8日に各地で慰霊祭が開かれるという。
 集会の主催者に瀬戸さんを紹介した琉球大学の高嶋伸欣教授(社会科教育)は、日本軍がタイに入る1年前に結ばれた「日タイ和親友好条約」の影響を指摘する。「日本軍のしたことは国際法違反。これは日本政府の責任問題になるから、この事実が伏せられるように仕組まれたのでは」
 集会は「アジアフォーラム横浜」の主催。「東南アジアでの日本軍の行為があまりに知られていない」と同様の集会を毎年開き、今年で10回目。タイから証言者を招くのは始めてだ。事務局長の吉池俊子さん(58)は「証言のできる方がどんどん亡くなられている。時との戦いです」と話す。
 瀬戸さんは県庁へ向かう途中で、自衛隊のイラク派遣反対の署名集めをしている人を目撃。周りの関心の低さに驚いたという。タイでは、派遣に前向きな日本の姿勢を見て、将来の海軍力増強を懸念する声も出ているからだ。「日本は戦争の怖さを忘れている。軍事に無関心すぎる」
 集会は6日午後5時から、横浜市神奈川区のかながわ県民センターで。

朝日新聞(2003年12月5日)より

神奈川新聞 (12月5日)より

太平洋戦争の体験証言
                            あす横浜 タイ在住瀬戸正夫さん

 8日の太平洋戦争開戦日を前に、アジアでの日本の戦争行為を知ってもらうための活動をしている「アジアフォーラム横浜」(吉池俊子事務局長)は、六日、証言集会をかながわ県民センターホール(横浜市神奈川区鶴屋町)で開く。10回目の今回はタイから証言者を招き、少年時代に体験した戦争の実態について証言してもらう。(尹 貴淑)
 証言者は、日本人の父とタイ人の母親を持つバンコク在住の瀬戸正夫さん(七二)=タイ名ビワッ・シータラクーン=。瀬戸さんは戦後収容されたキャンプでの生活など、戦中、戦後の体験を語る。
 瀬戸さんの父親はタイで医師として働きながら、日本軍のマレー半島上陸に備えてスパイ活動を行っていた。「釣に行くと海の水深を測っていて、子供心におかしいと思っていた」という。日本の敗戦後、父親は日本に帰国。以来再会することはなかったという。
 瀬戸さんは戦後もタイに残ったが、三十歳まで無国籍だった。そのため学校に通わずに飲食店の従業員などをして働き続けてきた。現在はフリーのカメラマンや著述家として活動しており、現在の日本には「平和になりすぎて、戦争の怖さを知らない」という印象を受けたという。
 当日は琉球大の高嶋伸欣教授(社会科教育)が、真珠湾攻撃よりも先に行われた日本軍のタイ上陸や、タイとの中立条約を破った事実などを解説する。

行われる

12・8を忘れない!

〜タイより瀬戸正夫さんをお迎えして〜

熱気あふれる会場に180名の方々が参加!

初めて知る:日本がタイに侵攻!
 日本とタイの間には中立条約(不可侵条約)が締結されていたにもかかわらず、諜報部員を潜り込ませ侵攻の準備もぬかりなく進められていました。条約を一方的に踏みにじって、1942年12月8日、日本軍はナコンシタマラートなどマレー半島のタイ領土に侵攻しました。諜報活動のために医師としてバンコクに住んでいた日本軍人を父として生まれた瀬戸正夫さんの少年時代の記憶は、具体的で貴重なものでした。
軍服に着替えた父
 釣と称して父親が船から水深を測っていたこと、日本軍の上陸と同時に父が軍服姿に着替え、情報将校として日本軍の先頭に立ったこと、タイの国家が放送される時に「君が代」が放
 

高島先生の講演

瀬戸正夫さんの証言

 高嶋伸欣琉球大学教授は、日本が日タイ不可侵条約を破ったことは、日本の外交史上の大問題であること、(従って)外務省ではそのことはアンタッチャブルになっていること、日本は、いつも日ソ不可侵条約を取りざたするが、日本がタイに対して行ったこの条約違反には全く触れてこなかった、何の軍事行動もなかったかのように外務省の記録などにも記載している、この問題は、天皇の責任問題でもあることを指摘されました。
 さらに、日本では全く知られていない日本のタイ侵攻について、タイでは瀬戸さんの父親をモデルにしたと思われる映画がありすでに公開されていること、日本でも公開さたこと(題名は「少年義勇兵」で、集会当日は、予告編版を上映しました)、タイ側から、もしこの問題を指摘された場合、日本人だけが知らないということになりかねないことなどなどが指摘されました。

瀬戸正夫さんの紹介 

著書 「瀬戸正夫の人生」上・下
        [東京堂書店]より

タイの子供たちと
   瀬戸正夫さん

水泳の弟子たちと
   瀬戸正夫さん

とにかく1週間に180人の弟子を、朝の10時頃から夜の8時ごろまで、休む暇もなくぶっ通しで教え続けた。午前中と夜の部は大人(主に主婦)のクラス。午後1時から7時頃までが、子供のクラスだった。僕は日曜日も休まなかった。昼食抜きでプールに漬かり、子供たちと楽しくわいわい騒ぎながら、真っ黒になって水泳の指導に当たった。(「瀬戸正夫の人生 下」より)

ブーケッ島で 一歳半の頃

慈悲深い仏の国タイの大地に生まれ、最愛の両親には捨てられ、日本の国家からも、日本の国籍を破棄され、自殺まで考え、戦前、戦中、戦後の、悲惨な荒れ果てた茨の道を、一人ぼっちでさ迷い、トボトボと辿った七十年間の自分の人生行路。(「瀬戸正夫の人生 上」より)

タイ侵攻は明らかに国際法違反  「日タイ和親条約」を無視

戦争責任問題となる!!

タイ・瀬戸正夫さん証言集会
案内   2003.12

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