このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

この集会は、2000年12月8日 
かながわ県民センターホールで行われました。

証言  蕭 雲ショウ・ウン) さん
(マレーシア)

講師  高嶋 伸欣   
教授
(琉球大学)
呼びかけ人:今井清一 大川隆司 信太正道

(敬称略)  高嶋伸欣 俵義文 西野瑠美子

        林博史 本間昇 渡辺賢二

アジアフォーラム横浜

 1942年3月、日本軍は当時8歳だった蕭雲さんの住むイロイロン村にやってきました。そして無抵抗だった1500人近くの村人のほとんどを虐殺したのです。蕭雲さんは日本軍の放った火から命からがら逃げのびました。
 それからイロンロン村には約40年、人が住んでいませんでした。日本軍は村を消してしまったのです。蕭雲さんも両親と弟を失いました。村で何があったのか、なぜ日本軍はこのようなことをしたのか?そして、証言を私たちはどう受け止め、どう生かすかを皆さんと一緒に考えたいと思います。講師にはこの問題の第一人者、高嶋伸欣教授をお招きして、より詳しく掘り下げます。

蕭さんの証言
 1942年、当時8歳、その日、日本兵の姿を見かけたので母親に注意したが、日本兵は戸籍を調べるために来たのだから逃げる必要はないといって誰も心配しなかったため、一人で逃げて身を隠した。隠れた場所から戻ってきたら、不思議なことに誰も見かけず、家に隠れていたら、日本兵が様子を見に来て、さらに翌朝、家を燃やそうとしているのに気づいたので隠れ場所に戻った。後で見に行ったら家は燃えていた。
 その後、一人の女性に会い、一緒に逃げながら、親戚の安否を確認した。その途中で多くの死体を見かけたが、二人の若い女性が道の傍らで殺されていたのを見た。家々は焼かれてしまっていた。途中で出会った男性に自転車でティティの親戚の家に送ってもらい、そこで1年ほど暮らした。その後、別の親戚の女性にの家に預けられたが、その親戚の家で、ひどい扱いを受け、死にそうな目にあったりしたので死のうと考えた。その女性が難産のあげく死んだので、ティティの親戚の元に戻った。そこで、ゴム園でゴムの樹液を集める仕事をした。そのころ、日本の占領は終わっていたが、マラヤ共産党が活動をしていた時代でとても大変な時代だった。
 高嶋先生が何回もティティまで我々の話を聞きに来た。もちろん、高嶋先生が来始めたころは、信用できるかどうか疑っていた。毎回来るメンバーの様子を見ていて、涙を流したり、追悼碑に線香をあげたりするのを何回も見て、高嶋先生が(この活動に)非常に力を入れていることがわかったので、協力することにした。今回は、今まで村の長老から黙っているように言われたことも、100パーセント私が知っていることはお話しする。
 今年66歳当時8歳の時のことを思い出して話した。本日こうして日本の皆さんが私の話を聞くために大勢集まってきたことに感動している。何十年も大変な生活をしてきた。学校に行かず、文字を読むことができない。しかし、私の話は筋が通っている。当時、ひどいことをやったのは、前の世代の日本人で、ひどいことをした当時の日本人に、その責任を持たせるべきだ。今日、私の話を聞いてくれている世代の人たちに直接の責任はない。

2000年証言集会
私の村は 日本軍によって消された!
なぜ日本軍はマレー半島で虐殺をしたのか?? 蕭雲さんの証言を聞く会

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