このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

アジアフォーラム横浜

 1942年、鄭来さんは6歳のとき、日本軍が「敵性華僑狩り」をした場所のひとつ、マレーシアペダスでこの虐殺行為に遭遇しました。自分の母親から赤ちゃんが取り上げられ、放り投げられ、その体は銃剣で…。鄭来さんもその直後、後ろから銃剣で刺され、剣を抜くために蹴飛ばされて、意識が遠のいていきました。幸いにして意識を取り戻したときには…。そのさんが来日し、ご自分の体験をお話してくださいます。戦後の日本政府の対応へのお考えなども併せてお聞きし、私たち自身の問題としてとらえていきたいと考えます。

この集会は1999年12月8日  
かながわ県民センター2階ホールで行われました

証言:鄭 来(テー・ライ)さん
          (マレーシア)

講演:
高嶋伸欣さん(琉球大)

呼びかけ人(敬称略)

今井清一
(横浜市大) 高嶋伸欣(琉球大)
本間昇(歴教協県委員長) 
西野瑠美子
(ルポライター)林博史(関学大) 
松井やより(「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク代表) 渡辺賢二(歴教協)

  真珠湾よりマレー半島??
 1941(昭和16年)年《12月8日》といえば「真珠湾」。ところがこの時、日本軍はすでにこの約1時間前にマレー半島で戦争を始めていたのです。もちろん、本格的中国侵略は1931(昭和6)年の満州事変に始まり、1937(昭和12)年の日中戦争で日本軍は中国での戦局を広げていました。アメリカなどから経済制裁を受けた日本は、自らの侵略を正当化して中国から手を引かず、アジア・太平洋戦争を始めたのです。東南アジアを侵略し、資源・市場・労働力を奪うことで、経済制裁を切り抜けようとしたのです。ですから、《12月8日》という日は、アメリカと戦うこと以上に、東南アジアを支配していたイギリス・オランダなどを追い出すという意味で重要な開戦日だったのです。日本軍は香港・シンガポールなども空襲して、陥落させることで軍事拠点化し、また華僑勢力を押さえつけて、日中戦を有利にしようとしたのです。

   なぜマレー半島で華人虐殺が??
 マレーシアコタバルから上陸した日本軍は、破竹の勢いでマレー半島を南下、翌1942年2月15日シンガポールは陥落しました。すると、日本軍の一部はこれまで進軍してきたマレー半島を北上、「敵性華僑狩り」を始め、中国本土へ仕送りする華僑の援助を断ち、日中戦争を有利にしようとしました。.

  弟は放り投げられ、銃剣で刺された。
 今回、来日してくださる鄭来さん(64歳)は、当時6歳。この日本軍の「敵性華僑狩り」で肉親を失いました。ペダスにやって来た日本兵は、10人ずつくらいの華僑をさまざまな方向に連れていき、ひざまずかせました。鄭来さんも同じようにさせられました。すると自分の母親から赤ちゃんが取り上げられ、放り投げられ、その体は銃剣で…。鄭来さんもその直後、後ろから銃剣で刺され、空に銃剣を抜くために蹴とばされて、意識が遠のいていきました。
1999年証言集会
 放り投げられた赤ちゃんに銃剣が!

なぜマレーシアで華人が虐殺されたの?

ー鄭来さんの証言を聞く会ー

      12・8証言集会アンケート紹介


鄭来さんは「過去を許す」とおっしゃったけれど、だからと言って無かったことにするのは戦争の経験を全然意味のないものにすると思う。平和な世界を作っていくには過去の事実を全て正確に把握することが必要不可欠だと思う。(10代・高校生・女性


歴史を忘れずに過ちを繰り返さないで、という言葉を今日ほど重く感じたことはありません。これから生きるのに自分はどうしたらいいのか考えさせられた。日本人のおかしなところを指摘し、正すにはきっと日本に住む私たち日本人が活発に動かないと難しいと思う。鄭来さんをはじめとする日本の侵略の被害者の方々から辛い経験を聞かせていただいたことを、ただ「聞いた」だけで終わらせるのではなく、自分と直結させて考えていきたい。(10代・高校生・女性


今日も勉強させてもらいました。毎回証言をうかがうことで考えることは「戦争」という中で「何万人死者」「何千人傷…」と数が示されますが、一人一人の人生が大きく狂わされてしまったという事実です。教育に携わる者として自分自身が大いに学び生徒に接していかねばならないということを改めて考えさせられます。(20代・教員・男性


去年に引き続き参加させていただきました。アジアへの侵略の被害者の方々が高齢になられそのことを聞く機会がなくなりつつあること、市民レベルでの支援に共感いたします。日本人である限り忘れてはならない過去です。過去は過去でなく現在に続く真実であり、今後も消えることはありません。 (30代・その他・女性)


加害の歴史の真実を知ることは大切なことです。二度と戦争をしない、起こさないために、もっと広く大勢の人たちに知ってほしいと思います。子ども・女性を含め無抵抗の住民を虐殺した日本軍、その中で生き残った鄭来さんのその後の人生がどれほどの苦難の道を歩んだことか、にもかかわらず平和な未来を志向する姿勢に感銘しました。わたしも平和を創るために頑張ります。(50代・会社員・男性)

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