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秘境の長大ローカル線「飯田線」とさよなら碓氷峠(旅行記)

 今年10月1日に北陸新幹線が開業するのに伴い、9月30日に信越本線横川—軽井沢間が廃止、同線軽井沢—篠ノ井間がしなの鉄道に転換される。今回はその碓氷峠を訪れた。

 724650分総勢5人が京都駅に集合し、今日のメイン飯田線をめざし米原行普通に乗り込む。221系であるが通勤時間なのか、かなり混んでいる。旅の始めから幸先が悪いなどと考えながら米原駅に到着し、急いで豊橋行快速に乗り込む。しかし快速とはいうものの大垣までは各駅停車の117系である。ここから豊橋まで1時間半乗りっぱなしとはなんとも暇な時間である。途中だれかの化粧の異様な匂いがしていたが、列車は何事もなく豊橋駅に滑り込む。

 そのまま飯田線ホームへ急ぐと隣の名鉄ホームからパノラマカーが発車した、去年と同じである。しかし肝心の茅野行が入線していないのにかなりの人が並んでいるので着席は無理かと思う。茅野行が入線すると座席の争奪戦の始まりである、そしてやっと何とか座席を5人分確保した。乗ってみると何とその車両の一部が荷物車になっている、こんな光景は関西では見ないのでみんなめずらしがっている。しかし、ここから岡谷まで6時間ほど乗っているのだから普通の人なら失神しそうなところだ。

 列車が出発し長い旅の始まりである。この飯田線は豊川まで名鉄と線路を共有する二重戸籍である。豊川をでると単線となる。長山あたりで左手に山並みが近づき、右手に豊川が近づく。飯田線は三河川合まで豊川に沿う。本長篠から山深くなり湯谷温泉につく。そして湯谷温泉の旅館やホテルが軒を並べているのが切れると、豊川上流の細い渓流が現れた。ここらへんから隣に座っているおじさんと話をしはじめた。この人も鉄道旅行が好きならしく、青春18きっぷを2枚、東海道と東北新幹線の切符などたくさん見せてもらった。この人は、毎年高校総体を見に行っていて今回も行くとのことだった。この人は親切で面白い人である、そんな内に列車は海抜270mの池場駅に滑り込む。

 列車はここから中部天竜までゆっくり下り、この辺からトンネルも多くなっていく。佐久間レールパークを左手に見ながら前2両が中部天竜駅から走り出した、佐久間駅までの駅間距離は短い。その時、Kがトッポを食べていたが私は遠慮しておいた。その間で天竜川を渡り、鉄橋の横に巨大な発電所が見える。ここから山をひとつ越えると佐久間ダムがある。その佐久間ダムが飯田線を湖底に沈めた。このダム建設により水窪川沿いに16キロにわたる大迂回ルートを飯田線は余儀なくされた。その迂回ルート上にはユニークな橋がかかっている、城西を出るとまもなくその橋を渡る。中央構造線上のこの付近は地盤が不安定で、落石を避けるため対岸に渡らず大きくカーブする形となった。天竜川沿いに戻る5.0626㎞のトンネルの中を列車は飯田線では信じられないほどの、時速80キロ以上もの猛スピードで疾走する。大嵐駅で青緑色の天竜川の水面が見える。ここから天竜峡の手前まで延々と天竜川を左に見ながら進む。

 小和田駅に着くと“恋成就駅 小和田駅”という標識が立っているが、雅子様にあやかっているらしい。小さなトンネルが執拗に続き天竜川を渡って天竜峡に着く。急いで駅弁を買いにいくと弁当なんぞは車掌1人分しか作っていなく、もちろん5人分もある訳がない。あたふたしていると「これしかない」と五平餅を出してきた、しょうがないのでそれを購入する。その時、よこを見ると何とKがスタンプを押している。そしてそれを持って車内へ入ると案の定、加藤が文句を言ってきた。列車は天竜峡を離れる、ここからトンネルがなくなった。飯田線は線路延長の半分がトンネルでうめられていて、その数何と145。この時点で列車は5分以上遅れていたが、時又の長時間停車で取り戻した。七久保駅のホームに“海抜六九八メートル”と書いた標識が立っている。沢渡の手前で久しぶりに天竜川が近づく。列車は勾配を上り続け飯田線の最高所駅の羽場駅(722m)に着く。なお、最高地点は伊那新町—宮木間にある。そのまま列車は飯田線終着駅の辰野駅に滑り込む。

 飯田線の印象としては、高校生の通学利用がかなり多い。1つの学校の生徒が全員降りると、次の駅で次の学校の生徒が乗ってくる、という風になっている。感心するほど生徒の入れ替わりがきれいになっている。

 実は、ここ辰野から塩尻方面へ行くには小野経由で行く方が距離的には近いのだが、列車が112往復と極端に少ないのである。この列車も辰野での接続はないので岡谷まで行く。

 しかし、岡谷で乗り換えるはずの列車が時間になっても来ない。結局4分遅れで到着した松本行普通は169系であった。 しばらくして列車は5.944㎞の塩嶺トンネルに突入する。この列車は松本に着く頃には5分遅れとかなり遅れていたが、ホーム向かい側に次に乗る長野行がとまっていた。この長野行は松本行の遅延により3分遅れで発車した。列車内には試合帰りとも思われる中・高校生がたくさん乗っておりかなり混んでいたが、関西ほどはうるさくなかった。客を少しずつ降ろしながら列車はこの旅行最初で最後のスイッチバック駅姨捨に進入する。この駅に延々と止まった後、列車は稲荷山まで延々と25‰の下り坂を200m下り続け、北陸新幹線10月開業を目指し大規模な駅となった長野駅に到着した。

 ここで夕食自由時間とし、夕食を食べに行く。夕食も食べおわりあさま車両の快速直江津行に乗り込む。この列車は特急車両使用の快速とあってずいぶん乗り心地が良い。隣のクロスシートでは加藤がふとんをきて寝ていたが、こちらはそんな事お構いなしにラジオでKBS京都(1143k)をひろっていた。するとこんな長野の電車の中からでも聞こえたのだった。そして、この旅行でコンセントがついているのはこの列車だけなので今のうちに電池の充電をしておく。私たちの前の席では高校生が寝息をたてていた。直江津に着くとおなじみの鉄道唱歌が流れた。直江津ではくたかと北越急行を見送り長岡行115系に乗り込む。その後、長岡で新潟行に乗り換える。この列車を新津で降りてムーンライトえちごに乗り込む。

 ムーンライトえちごは165系であるが座席が急行用グリーン車に取り替えてあり、シートピッチも広い。列車に乗り込むと私たちの座席に誰かが座っていてびっくりしたが、この人は指定席券を持っていなかったのでそこに座っていただけだった。列車は長岡に着き私たちは夜の無人の長岡駅を散策する。私は長岡を出て1時間くらいは起きていたが、同行者がみんな寝静まったので私も寝た。水上での運転停車の直前に起きたのだがその後、高崎までは記憶がない。この列車を赤羽で降り、上野で折り返して高崎へ行く。高崎ではシノラーを見たが、ずっと手を振っているのでよくやるものだと思いながら乗り換える。

 長野行に乗り込むと横軽を撮りに行くという人に出会った。高崎を出ると上越線列車としばらく並行し、こちらがカーブしていく。横川に着くと私を含め多くの人がEF63の連結シーンを見に行った。列車は碓氷峠を登っていき、丸山信号所を通過すると66.7‰のJR最急勾配にさしかかる。トンネルをぬけアーチ橋などの撮影に熱中していると、間の悪い事に車掌が検札に来た。軽井沢で降りてEF63の切り離しを見た後、おぎのやで“峠の釜飯”の予約をしておく。その後、乗車券を買ったり、EF63E2系などを撮影しているうちに列車の発車時刻が迫ってきたので、おぎのやで“峠の釜飯”を受け取り列車に乗り込む。列車の中で峠の釜飯を食べながら長野へ向かう。列車は小諸、上田などに止まり北陸新幹線を右手に見、長野に到着する。長野には昨日も来ているので、この旅行で二度目になる。長野から快速みすずにのるが、誰かが169系と言っていたが115系だった。これで塩尻まで行き、時間があるので塩尻駅前を歩いてみる。旅行貯金をしようとしたが、郵便局がないので断念した。

 中津川の駅に止まっていた165系は前面が汚かった。JR東海は特急列車にかかりっきりになっているらしい。その上かなり混んでいるので、しかたなくデッキに居座る。その列車は山の間をくねくね曲がりながら行くので、なるほど振り子列車がいるはずだ、と思いながら乗っていた。贄川で対向列車の交換待ちのため3分遅れて発車したが、何の説明もなかった。結局、木曽福島で停車時間を短縮して遅れを取り戻した。南木曽でワイドビューしなのに道を譲って、中津川で名古屋行快速に乗り換える。この列車も一番後ろの車両の一部が多治見まで荷物車だった。JR東海はこんな事をよくやっているらしい。高蔵寺を過ぎてから右手に車庫が見えたが、そこには103系と3813両が連結されていた。大曽根で名古屋ドームが見えた後、列車は名古屋駅に到着し、私たちは快速みえに乗り換える。

 快速みえは混んでいたので座る事ができなかったが、木曽三川やアクアプラザながら(長良川河口堰)などを見る事が出来た。四日市で亀山行に乗り換え、亀山で加茂行に乗り換える。加茂行はオールロングシートのキハ120であった。柘植駅に降り立つと、草津線ホームに221系が止まっていたので得した気分になったが、回送でどこかへ行って留置線に入線してしまった。結局115系が入線しそれで京都へ帰る事になった。こうして私たちの旅行は終わったのだった。

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