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旅行記

旅行記
No.005
四国 方面

題名

「四国右往左往」 著・真野 修史(RPS)

四国右往左往



 私は、九州には1992年の4月に、約1名の同行者(ちなみに私より年下)とともに、鉄道で上陸した。北海道には今年の3月に、ひとりで、やはり鉄道で上陸した。

 ところが、四国は、関西から一番近い割には無視され続けていた。決して四国が嫌いだとか、そういう訳ではないので、誤解を招かないためにも、そろそろ四国へも出掛けようか、と思う。

 1997年7月22日。私は、最寄りのJR立花駅を5時39分に発車する電車に乗った。201系7連の各駅停車の加古川行だが、西明石で西明石始発の普通岡山行に乗り換える予定である。理由は、始発から乗った方が座れるだろうからである。

 須磨付近では、瀬戸内海を眺め、舞子駅の頭上を貫く明石海峡大橋も眺め、6時33分、西明石に着いた。車掌の放送によると、岡山行は同じホームから出発とのことなので、別に階段を走る必要もなく、のほほんと過ごす。ところが、どの位置で並べばよいのかわからない。これは、今回の旅行で感じたのだけれど、こういう中途半端に都会の駅では、あの三角とか矢印とかの、並ぶ位置の目印はついていることが多いのだが、今度の列車は、三角印で待てばよいのか、矢印で待てばよいのか、はたまた丸印で待てばよいのかがわからないのである。また、編成両数もわからないので、ホームのどのあたりまで並んでよいのかもわからない。もっと案内を徹底すべきだと思うが、仕方がないので、毎日この列車を利用しているらしい、ネイティブの後ろに並ぶ。
 岡山方から、115系3連を2本つないだ、6両編成の列車が入線してきた。オレンジと緑の、いわゆる「湘南色」、国鉄メークの列車である。大阪方の3連は、車内のシートをセミバケットタイプに交換していたが、私の並んでいた岡山方の3連は、なつかしい「国鉄」の雰囲気が漂っていた。

 6時46分、定刻にほとんどがらがらで出発。だが、普通電車なので、こまめに停まっては客を拾っていき、7時03分に加古川を出た時点では、ほぼ満席になっていた。
 7時20分の姫路でほとんどの客が入れ替わる。姫路までは大阪の勢力圏、姫路から先は岡山の勢力圏なのだろう。通学の中学生や高校生がドヤドヤと乗ってきて、車内は騒がしくなる。私は、こういう雰囲気は決して好きではないけれど、特急列車では絶対に味わえない雰囲気ではある。
 相生で赤穂線が左に分岐し、トンネルに消えていく。赤穂線は海岸沿いを走るが、こちら山陽本線は、田園地帯を横切り、智頭急行線が分岐する上郡を過ぎると、峠越えにかかる。この付近は駅間距離が長く、車掌が検札に来るのだが、中学生らのスポーツバッグが通路を占拠しており、車掌氏はそれをラッセルしながら進まなければならず、ちょうど私のところで、通路を占拠しているカバンの持ち主である中学生らに、「白陵(中学校の生徒)さんは、いつもカバンで通路を…。通られへん」と愚痴をこぼす。私と車掌氏の目が合い、お互いに苦笑する。

 その「白陵さん」は、熊山で下り、車内が少しすっきりする。

 東岡山で赤穂線と合流し、8時52分、岡山着。いま乗ってきた列車の切り離し作業をしているので、見物にいくと、後ろ3両は赤穂線の長船へ戻るのに対し、前3両は伯備線の新見まで足を延ばすという。こういうスケールの大きい車両運用は、JRならではで、私鉄では見られず、見ていて飽きない。もっとも、その点から見れば、旧国鉄はその最たるもので、東北新幹線の開業で不要となった、青森や仙台の485系を南福岡や鹿児島へとばしたり(いわゆる「タライ回し」)、大阪−青森間の寝台特急「日本海」の客車は、一体どういう車両運用なのか、熊本の所属だったりと、にぎやかこの上なかった。

 となりのホームに、伯備線特急「スーパーやくも」が見えるが、パノラマ型グリーン車は連結していないようだ。時刻表の伯備線ページの欄外には、「特急スーパーやくも3・7・17・21・4・8・18・22号はパノラマ型グリーン車で運転されない日があります」と書いてあるが、「スーパーやくも」は、これだけしかないので、要するにどの「スーパーやくも」も100%は信用するな、ということであろう。

 瀬戸大橋線のりばである、11・12・13番線ホームへ移動する。1面3線とはどういうことか、とも思うが、12番線はホーム先端の切れ込みにある、一人前ではないのりばで、瀬戸大橋線の普通列車が発着する。9時38分発の「マリンライナー15号」は11番線から発車で、「マリンライナー6号車自由席」というところに並ぶ。

 9時24分、「マリンライナー10号」が到着。これが折り返しで、15号になる。
 「マリンライナー」に使用されるのは、213系という、旧国鉄が最後に作った車両で、1号車はパノラマ型グリーン車になっている。この車両だけはホワイトベースの塗色の普通鋼製、その他の車両はステンレス製の無塗装で、ブルーのラインを巻いている。車内は、223系1000番台のような、セミバケットタイプの転換クロスシートで、色がブルー系のため、関空快速(223系0番台)のようにも思える。

 「マリンライナー」は、途中、妹尾または早島、茶屋町、児島、坂出に停まり、ほとんどは坂出−高松間をノンストップで走るが、早朝・深夜の一部はこまめに停車する。

 9時38分、定刻に発車。この列車は、妹尾停車タイプである。自由席車はほぼ満席で、現在の30分ヘッドでは少し少ない気がする。「新快速」のように、15分ヘッドにするだけの需要は無いにしても、20分ヘッドくらいに増発してはどうか、と思うが、これには、車両不足という問題の他に、線路不足という問題も起こってくる。少し、どういうことか、説明したいと思う。「瀬戸大橋線」というのは、宇野線(岡山−茶屋町)・本四備讃線(茶屋町−宇多津)・予讃線(宇多津−高松)の統合の総称である。同じく、青函トンネルを通る「津軽海峡線」も、津軽線(青森−中小国)・海峡線(中小国−木古内)・江差線(木古内−五稜郭)・函館本線(五稜郭−函館)の統合の総称である。話を瀬戸大橋線に戻すが、この3線のうち、瀬戸大橋部分をまるまる抱え込んでいるのは本四備讃線で、言うまでもなく、1988年開業の新線で、全線高架・複線・踏切なし、という新幹線並みの超一級路線で、今以上の列車増発ももちろん可能である。予讃線区間(宇多津−高松)も、複線・電化され、準備は万端となっている。

 ところが、宇野線区間の岡山−茶屋町間が、単線のままなのである。何度か複線化の話も出たのだが、結局実現していない。そのため、現行のダイヤがほぼ限界なのである。実際、この区間に乗ってみるとわかるが、停車駅に着く度に、上下列車が交換しており、JR西日本と四国のスジ屋(ダイヤ作成者)さんの技術には感心させられる。ちなみに、この複線・単線の連続も、同じことが津軽海峡線にもいえる。ただ、あちらの快速「海峡」は1日わずか7往復で、利用客数は青函連絡船時代に最低だった年をも下回っているくらいなので、何も知らない私が勝手に言うのは悪いが、ダイヤ作成もそれほど難しくはないだろう。

 一方、こちらの「マリンライナー」は、1988年の瀬戸大橋線開業当時は60分ヘッドだったのだが、連日超満員の大盛況で、JR側も、当初は、開業後しばらくの間のフィーバーと見ていたのだが、その大盛況は全く衰えるところを知らず、1989年のダイヤ改正で現行の30分ヘッドに倍増され、利用客数も若干減少を見せたが、ほぼそのまま現在に至っている。しかし、なぜ瀬戸大橋と青函トンネルは、これほどの差ができてしまったのであろう。青函トンネルは長距離客は多いが沿線人口が比較にならないということもあるとは思うが、何よりも橋とトンネルの差が大きいように思う。開業当時、日本人ならだれしも、「一度は、青函トンネルと瀬戸大橋を通ってみたい」と思ったことであろう。私も、今年3月に青函トンネルを通ってきたが、一般人から見れば、青函トンネルなどただのトンネルで、何も珍しいものはない、となり、二回目からは青函トンネルなどには目もくれず、飛行機で千歳に直行してしまう。ところが、瀬戸大橋の方は、ただの橋と言えばただの橋であり、青函トンネルと同じ運命なのであるが、その橋自体の美しさと車窓の美しさが客を離さないのではないだろうか。日本の建築技術の素晴らしさが実感できるのは、青函トンネルよりも瀬戸大橋である。私は、個人的には、瀬戸大橋よりも青函トンネルの方が素晴らしいと思うのであるが、海面下240mゆえ、見ることができない。しかし、瀬戸大橋は、いやでも目に入ってくる。そうしたものが、二回目以降も瀬戸大橋を利用させているのではないだろうか。

 10時06分の児島で、運転士と車掌が、JR四国に交代し、いくつかトンネルを抜けると、右側から、自動車道路がこちらの頭上にかぶさってきて、そのまま瀬戸大橋に進入する。

 鉄道は、自動車道路の下を通り、さらに、鉄骨のトラスの中を走るので、景色は悪い、と思われがちだが、自動車も、乗用車などでは背が低いから、景色も何も見えないであろうし、バスにしても、一番左側の車線を走らなければ、見えにくいであろう。また、瀬戸大橋を自動車で渡ると、通行料はとても高い(普通車でも約5000円)が、鉄道なら、ほぼ全国一律のキロ当り運賃に、わずか100円の「瀬戸大橋線加算運賃」をプラスするだけでよい。こう書くと、「瀬戸大橋線加算運賃」は、開業当初から徴収されているように聞こえるが、この加算運賃は、1996年1月に「三島会社」が、JR発足後初の運賃値上げ(1989年4月の消費税転嫁によるものを除く)に踏み切った際、JR四国が、少しでも増収を図ろうと、加算運賃を設定したのである。こうした加算運賃設定区間は最近の空港アクセス鉄道(千歳線・関西空港線・宮崎空港線)でも見られるが、これらは開業当初から徴収されており、れっきとした「建設費償還」なのだが、開業後8年もたって、いまさら「建設費償還」と言われても世論は信じない。だが、 100円という許せる金額であるし、自動車に比べると、鉄道はこれでも安すぎるので、私は別にJR四国を訴えよう、などとは思っていない。

 あいにく、瀬戸内海は、少し霞み気味だが、小さな島々がシルエットになって浮かんでいる。大小の船が行き交う…。下を見下ろせば、瀬戸大橋の土台にさせられた小さな島も見える。     少し減速して、与島を通過。与島は、自動車道路のサービスエリアもあり、人も住んでいる、最大の島であるが、その島民からの、「列車の音がうるさい」という苦情により、特に騒音がひどかった、かつてのキハ181系ディーセル特急は、与島付近で大幅な減速を余儀なくされ、運転時分確保のため、児島を通過し、坂出で運転士・車掌の交代をしていた。

 四国に上陸すると、宇多津駅ホームを通らない短絡線(亘り線)を経由し、坂出駅に進入する。ただし、こういう短絡線経由の場合は、その駅のホームを通らなくとも、短絡線は駅構内とし、その駅を通るルートのキロ数で運賃等の計算をする。                      坂出着10時21分、定刻である。予讃線下り列車に乗り換えるため、下車する。
 ここから、10時35分発観音寺行普通電車に乗る。やってきたのは、JR四国自慢の、6000系電車。JR四国は、相当、アイデンティティーが強い性格らしく、1988年には、予讃本線、土讃本線などから、「本」を取り、単に、予讃線、土讃線としたほか、車両の形式名も、私鉄のような4ケタ制を採用(JRグループ他社は国鉄時代の2ケタ制をほぼ継承)したり、クハ・モハ・サハ・キハなどの語も廃止した。ただし、これはJR四国ブランドの車両だけで、国鉄から継承した車両は、まだ昔ながらの形式名を名乗っている。

 この6000系も、単に「6012」などと車体に書いてある。本当に私鉄のようである。車内設備は、「マリンライナー」に準じた、セミバケットタイプの転換クロスシートで、快適である。また、この車両のLED案内装置が少しユニーク。「次は 多度津」「Next TADOTSU」までは別に珍しくはないが、その次に「次は タドツ」というのが入っている。お子さま向けモードなのだろうか。(筆者注:先日、JR東日本の209系に乗車したところ、この6000系と全く同じパターンであった。カタカナモードが無いのは、JR西日本だけなのだろうか。)
 その多度津に10時51分着。11時03分発の土讃線下り・阿波池田行普通列車に乗る。この列車は、キハ54という国鉄型のディーゼルカーを3両つないでいるが、後ろの1両は琴平止で、前2両が終点の阿波池田まで行く。この列車は、やたらに停車時間が長く、多度津から阿波池田までの43.9kmを、1時間37分もかけて走るが、そのうち40分くらいは、停車中の時間である。そのうち最長のもが、後述の坪尻駅での19分停車である。
 2両目のキハ54−10に設置してある消火器に、興味深いことが書いてある「キロハ180−2 H4.9.25」。キロハ180とは、先ほど少し触れた、1993年3月改正で四国から引退した、キハ181系ディーゼル特急車の、グリーン・普通合造車である。消火器代も、ばかにならないので、再利用しているのであろう。

     サヌキ サイだ ハシクラ   ツボジリ
 土讃線の讃岐財田−箸蔵間に、坪尻という駅がある。6月20日放送の、テレビ朝日系「探偵!ナイトスクープ」という番組で、「乗降客がいない駅」として取り上げられ、「探偵(調査マン)」が、今、私が乗っている、この列車に乗ってやってきて、丸1日、坪尻駅周辺に張り込み、一体何人くらいの人が坪尻駅を利用するのか調べていた。駅の前は、草むらで、全く何もないので、だれも利用しないのでは、と思う矢先、駅から山道を歩いて40分のところに住んでいる老夫婦が、列車で阿波池田から帰ってきて、もういないだろう、と思っていると、その翌朝、その老夫婦がやってきて、また、列車で阿波池田まで出掛ける、という展開になり、結局、1日の乗降客は、計4人、と報告された。
 私も、19分の停車時間を利用して、坪尻駅に降りて、その「何もなさ」を実感しようと思う。
 峠を越え、やや長いトンネルを抜けると、その坪尻駅が見えてきた。急な下り勾配のため、列車は、スイッチバックで進入するのであるが、テレビの「探偵」は、それを、運転士が行き過ぎた、と勘違いして、「あ、通り越したで」とか「バックする?やっぱりな、行き過ぎたんや。呑気な電車やなー」などと言って笑いを取っていた。

 当然のことながら無人駅なので、車掌に、「ちょっと降りてもいいですか」と尋ねてみる。「どうぞ、どうぞ。20分ありますので」とのことなので、ホームに降りる。もっとも、私は、「青春18きっぷ」を持っているので、もし、「ダメです」などと言われても、ここで実際に降りることにすればよいのであるが。

 私につられたのか、数人の人が降りて、めいめい伸びをしたり、煙草をふかしたりして、しばしの休憩を取る。私は、改札口を通り、駅の外へ出てみた。本当に草むらしかなく、さびれたキャンプ場のような雰囲気である。テレビの報告通り、確かに、「道」が2方向に岐れているが、日にちがたっているせいか、雑草が生い茂り、今にも消えてしまいそうである。            待合室(?)の端に、「お手洗 LAVATORY」と書かれたトイレがあるが、こういう無人駅のトイレには、洗面所の無いことが多く、用は足しても手は洗えないケースが多い。確かめはしなかったが、トイレから出てきた中年のご婦人が、何やら水道を探すようなそぶりをしていたのを見ると、おそらくそうなのであろう。だから、看板の「お手洗い LAVATORY」という表示は、どちらも、厳密に言うとおかしい。少し脱線するが、英語圏では、lavatoryという単語はあまり使われない。唯一と言ってもいいほどよく使われるのは、飛行機のトイレを指す時である。もともと、lavatoryは、「洗面所」を指す旧い単語で、飛行機のトイレのように完全に一体化しているものを指す。日常的には、rest room(主に米)やwashroomなどを使う。しかし、この坪尻駅のトイレは、まさに便器しかないので、「便器」を表すtoilet room(日常的にはやや汚く聞こえる)が正しいのであって、わざわざ、あまり使われないlavatoryなどを使うと、英語圏の人々は、完全に洗面台がある、と信じて疑わないことであろう。

 12時21分、無事に、上下の特急「南風」と交換し、山間の何もない駅を発車する。
 それはともかく、12時40分、定刻に阿波池田着。これから徳島線で徳島へ出る予定であるが、実は、徳島線は、阿波池田のひとつ多度津方の佃から分岐しており、佃では、まさにその徳島経由阿南行と交換したのであるが、その後、徳島での接続が悪く、1時間程待たねばならない。どうせ1時間待つのなら、ちょうど昼食時の阿波池田駅で、何か食べて過ごす方がよい、と私は考え、阿波池田13時41分発の徳島行にゆっくり乗る、という計画をたてたのである。ちなみに、佃で交換した阿南行は、バカ高校生どもの戦場と化していた。

 改札口を出ると、駅舎内に立ち食いそば屋があったので、そばの好きな私は、喜んで、きつねそば(410円)を食べた。格別、という程でもないが、うまかった。
 徳島行1000系単行ディーゼルカーに乗り込み、発車を待つ。1000系ディーゼルカーは、形式名でわかるように、JR四国ブランドの車両で、車内の座席配置が少しユニーク。普通なら、車両の中央部がクロス(ボックス)シート、扉付近がロングシート(ベンチ状のもの)というパターンが多いのだが、この車両は、クロス部分とロング部分が、車両の中心を「点対称の中心」として、点対称状に千鳥配置されている。

  徐々に、高校生らで車内が埋め尽くされ、数人が通路に立った状態で、ディーゼルカーは動きだした。
 食後で、さらに今朝は4時半起きのせいか、13時55分の阿波加茂のあたりから睡魔に襲われた。しかし、折角の未乗路線なので、眠るわけにはいかない。睡魔との激戦は30分以上に及び、何度か私が陥落しそうになったが、14時29分の穴吹の戦いで、私が勝利した。
 閑話休題。地元の人には失礼だが、私は、徳島線というと、もっと山間の、ひなびたローカル線を想像していた。しかし、どこにでもある田園地帯が延々と続くだけで、むしろ、先ほどの土讃線の方が、ローカル線の味がする。これでは、別に寝てしまってもよかったな、などと思う。

 14時45分、学。北海道の広尾線(1987年2月1日廃止)の幸福駅ブームが一段落した頃から、受験生らの間で、今度はこの駅が人気を集めたこともあったが、今はそんな話は聞かない。
 徳島線沿線が意外とひらけているので、私は少しがっかりした。ローカルムード満点の線区の候補が、またひとつ減ってしまったからである。
 15時34分、徳島。徳島から、15時53分発の普通列車で、一気に高松まで戻る予定である。

 阿南方面から、キハ47型4連が入線してくる。後ろの2両は引田止だという。肝心の高松付近で2両で足りるのかな、と思う。
 15時54分、かけこみ乗車のおばさんのおかげで少し遅れて出発。車内はがらがらで、そんなことおかまいなしにごとごと走る。

 鳴門線が分岐する池谷駅は、民家の中に埋もれており、とても鉄道のジャンクション駅の威厳は無い。地元の人が聞けばどつかれそうだが、高徳線は意外とローカル線らしいのでうれしくなる。

 16時26分、板野。車内放送が、「鍛冶屋原方面行バスは乗り換えです」という。かつて、ここから鍛冶屋原までの6.9kmを、国鉄鍛冶屋原線が走っていたが、1972年1月16日、赤字に転落し始めた
国鉄経営再建のために廃止された。廃線後の代替バスの乗り換え案内は、JR北海道の音威子府駅でも、「宗谷バス天北線(1989年4月30日廃止)は乗り換えです」と放送している、という話を聞いたことがあるが、他にあまり例はなく、珍しい。
 板野を過ぎたあたりから、列車は、エンジンをうならせて峠越えに挑むが、エンジン音に反比例して、速度はお世辞にも速いとは言えない。次の阿波大宮駅は、「山間の小駅」ということばがぴったり当てはまるような、ローカルムードあふれる小駅だった。
 トンネルの中で分水嶺を越え、下り勾配に変わり、スピードがみるみる上がるのがわかる。ついさっきまでのエンジン音はとたんに静かになり、制動音が響く。
 引田に16時47分着。発車は17時04分で、この間に、上下の特急「うずしお」と交換し、後ろ2両を切り離す。
 引田を出ると、徳島線のような、どこにでもありそうな田園地帯の中を走る。だが、こうして鈍行で旅をしていると、特急列車の旅では気付くことのできない、「何か」に気付くことができる。それは何だ、と言われても困るのだが、「旅情」とでも言おうか。不満があるのなら、一度、実際にローカル線の鈍行に乗ってみるとよい。また、都会では感じられない、田舎ならではのものがある。それは、単に物質的な面のみならずである。

 そのようなことを考えているうちに、18時14分、高松に着いた。
 高松駅は、私鉄のターミナルのような頭端式ホームで、青森駅や函館駅をも連想させる。全ての旅客列車が、連絡船中心に発着した、という歴史的共通点があるからであろう。
 870円の「牛めし」とお茶を買って、夕食にする。
 18時47分発の「マリンライナー52号」に乗る。瀬戸大橋から眺めた、真っ赤な、燃えるような夕日が印象的だった。

 私の近くの席で、「越境通学」の女子高校生が軽い寝息を立てていた。

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