このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
チリでは、たくさんの動物に出会いました。 ペンギン 、ニャンドゥー(ダチョウの一種)、 グアナコ (リャマ、アルパカの仲間。ラクダの一種)、コンドル、 キツネ 、スカンク、フラミンゴ、クロクビハクチョウ、カモメ、イルカ、 アシカ 、それに私は見ることができませんでしたが、船からクジラが見えたそうです。動物園とちがうので、いつどんな動物があらわれるかわかりません。カメラの用意をしているあいだに スカンク は茂みの中に隠れてしまいました。渡り鳥のハクチョウやツルが日本で産卵するのと同じように、ペンギンも北の陸地の土に穴を掘って子育てをします。親鳥(ペンギンも鳥類です)は朝、海に出て、エサのサカナを子どもの分までたくさん食べて、夕方になって戻ってきます。海から上がってくる姿は愛らしく、健気さを感じます。陸上をペタペタと歩く姿も本当に疲れているからだろうと思えてしまいます。パタゴニアの地図を見ると、プエルトナタレスから北に陸路で行こうとすると、アルゼンチンのカラファテを通ってチリに再入国することになります。人が住んでいないから道がないのか、人が住めないから道がないのか…。いずれにしても、氷河におおわれた山が人の往来を拒んでいるのです。 氷河は飛行機の上からみる と、本当に川が流れているかのように見えます。 グレイ氷河 の流れ着く地点まで、ツアーで行きましたが、 氷河の氷は青くてきれい でした。いつごろ、地上に降ったものが、今ここに流れ着いたのかわかりませんが、私が生まれる遥か前に降ったものであることは間違いありません。氷河は目に見えるような早さではありませんが、まわりの山を削りながら少しずつ動いているのです。そして、その氷河が長い長い年月をかけて形作った自然の造型の最高傑作の一つが、 「地球の角」パイネの塔(2800m) です。パタゴニアの山は天候が変わりやすく、雲はなかなか パイネの塔の全体 を見せてはくれませんでした。
プンタアレナスからプエルトナタレスまでのバスに乗っていると、道路脇に交通標識とともに、その土地の地名の看板を見ることができます。ほとんど全部「E」で始まります。「Estansia」荘園と訳せばいいのでしょうか、ヒツジや馬や牛の牧場が続いていて、「誰々のEstansia」と書いてあるのです。
パイネを見に行くバスツアーの途中で ガウチョ(huasoとも言うようです。カウボーイ・ここではヒツジボーイですが)が牧羊犬を使ってヒツジを移動させる光景 に出会いました。道路を横断するので、車はストップ。ヒツジ優先の道路を横断でした。
今回の旅では、言葉でのコミュニケーションの不足を補う手段として、折り紙を持って行きました。ツルやカブトなどを折って、出会った人たちに差し上げたら、大変喜んでくれました。「芸は身を助ける」ということわざがあります。私の折り紙はとても芸と呼べるしろものではないのですが、「lindo !lindo!(可愛いという意味)」という言葉が還ってきました。きっと生まれて初めて、目の前で折り紙を折ってくれたという驚きもふくめての言葉だと思います。折り方を教えてほしいといわれたら、相手にも折り紙を渡して、いっしょに折りながら日本語で説明しました。プエルトエデン号船内で折り紙を折っていると「origami」と言って、通り過ぎてゆく人がいました。そうか、折り紙は「karaoke」や「sushi」と同じように「origami」なんだ。見知らぬ人と話をするきっかけを作るのは難しいことですが、折り紙は人と人の壁、言葉の壁を低くしてくれました。チリで出会った人との会話のきっかけの多くには、折り紙が関わっています。
ペンギンのコロニーへ行くツアーで出会ったスイス人。 二人の女性 は貿易会社に勤めていて、5週間のバカンスでチリにやってきました。 ペンギンのコロニー のあるところは大変風の強い所。「風が強いね。」という問いに「ペンギンがいつもコートを着ている理由がわかったよ」などと、歯の浮くような話ができるのも、最果ての地だからこそ。「私は、これからプエルトナタレスからプエルトモントへ行くんだよ」という話をすると、「NAVIMAG(船の会社の名前)で行くのか?私たちはその船で来た。」といやな思い出を思い出すかのように言うのです。「そうだ」と答えると、「船酔いは大丈夫か?私たちは船酔いで大変だった」「そりゃ、スイスに海がないからだろう?」「そうじゃないよ。揺れて、楽しくない船だ」というのでした。
もう一人の ヒゲの男性 は、スイスの「一人ドロンズ(電波少年、知ってます?)」。元スイス航空の職員で成田や関空にもいたことがあるというおじさんです。退職して、1年かけてチリの南端から、アラスカまで飛行機を使わないで旅をするのです。「八千何百‥キロメーター」とアラスカまでの距離を恋人の名前を呼ぶかのように語ります。「空からばかり、地球を見てきたので、地上から見たいのだ」「そのかわり。食べる物も泊まるホテルも安いんだ」「僕の泊まっているところも安くてひどいホテルですよ」ツアーが終わってホテルに戻ると、このおじさんも同じホテルに戻ってきました。
「NAVIMAG」の事務所の乗船券販売担当の セニョリータ 。200ドルのエコノミー(26人部屋)を予約していたのですが、6人部屋のドミトリーの部屋にアップグレードしてくれました。もちろん、料金はそのままで。お礼に折り紙をプレゼント。ツーショットの写真もあるのですが、それは非公開。
「NAVIMAG」のプエルトエデン号船内で仲良くなったお友達、 ファン・イグナシオ君 。折り紙を大変喜んでくれました。船には三泊したのですが、食事以外には特別やることはないわけです。ロビーではアメリカのコメディー映画をビデオでやったり(英語で字幕がスペイン語)するのですが、みんなが笑っている時に言葉がわからないので一人だけ笑えない疎外感はコメディー映画だけに辛いもの。そんな時に折り紙を通してお友達になったのが、彼と彼の家族でした。サンチアゴに住んでいます。船内には、北海道で英語を教えていたというアメリカ人、日本語を勉強中のドイツ人、ユタで寿司をにぎっているというアメリカ人が多少日本語ができたので、英語とスペイン語を交えて話ができました。その他の人とは英語が共通語。
ペンギンツアーでスイスの二人が話をしていた船酔いについては、船内のミーティングで「外海にでると揺れるので、その時には薬を配る。でも大丈夫、船酔いする人は全体の80%くらいだから」という説明。実際、外海に出る頃の食事の時間は空席が目立ちました。プエルトアイセンからチロエ島あたりの外海は荒れることもあるようです。でも、私が乗った時は風もなく、ほとんど揺れませんでした。300ドルの部屋にアップグレードしてくれた船の文句は、義理堅い私には言えません。相部屋になった他の5人 (オランダ人2人・カナダ人・チリ在住のフランス人・アイルランド人) も大丈夫だったようです。
6人部屋のドミトリーでのこと。私のいびきがうるさいとオランダ人が言うのです。いびき防止リングとテープを準備していたのですが、最初の晩は忘れて眠ってしまったのです。次の晩からは、苦情はなくなりました。けっこう、効果があるようです。私は、ドミトリーで同室のひとのいびきがうるさいと思えば耳栓をします。飛行機では隣の人を選べないし、ドミトリーに泊まるのであれば、それくらいのリスクは覚悟しなければと思うのですが…。あなたは、どう思いますか?
ラテンアメリカハイウェーの南の起点がチロエ島。
長距離バス
は安くで快適です。夜行寝台のSalon Camaはまっすぐ足が伸ばせて眠れます。私は乗ったことないけど、飛行機のファーストクラス並みと書いてあるガイドブックもあります。街中も乗り合いバスが安くて便利です。街のまん中がセントロ。広場(プラサ)と
教会(カテドラル)が
あります。セントロから目的地まで行って、セントロに戻ってくる。街中は一方通行が多いので、その点でも広場のまわりが全部道のセントロはバスに乗るのも降りるのも便利です。サンチアゴからバルパライソへもバスで行きましたが、サンチアゴ郊外に出るとサッカーコートが道沿いにいくつもありました。帰りに数えてみたら、23ありました。タッチラインは約100メートル。少なくとも2キロ半はサッカーコートが連なっているわけです。
楽しみにしていたカニ(セントージャ)は禁漁期間で食べることができませんでした。7月から11月にいらっしゃいとのこと。その他、自分が食べたものについて。魚介類が好きなので、魚介類のスープ (sopa de mariscos)をよく食べました。日本では、レストランに入ると水が必ず出てきますが、チリでは同じようにパンが出てきます。おかわりもOKで、料金に含まれません。最初は知らなくて、サンドウィッチを注文して、残してしまいました。刺身で食べられるような魚があればと醤油とワサビ持参で行ったのですが、プエルトモントの市場アンヘルモでウニを食べた時以外は、醤油とワサビの出番はありませんでした。スープにはアヒ(aji)というトウガラシの香辛料をいれます。プエルトモントの市場の食堂で隣に座ったチリ人にワサビを日本のアヒだと紹介したら、興味を示したので、すこしあげたら、鼻につんときたのか、あわてて水を飲んで大変な騒ぎになりました。肉はおいしくて、ブタ肉がけっこういけました。味付けは塩とコショウが中心のようで、塩はかなり多めです。デザートのケーキやアイスクリーム、コーラやジュースは砂糖が過剰です。レストランのメニューにダイエットコーラが乗っています。果物は、モモ、スモモ、プラム、ブドウ、メロン、スイカなどが安くておいしいです。ただし、フルーツは夏だけ。プンタアレナスやプエルトナタレスなどパタゴニアでは品質が少し落ちます。
サンチアゴでお世話になった家で ウニを腹一杯食べました 。多い日には1日に2トンくらい、日本に空輸されているそうです。でも、サンチアゴの鮨屋では、ウニがありませんでした。サーモンが新鮮で美味しかった。カニカマのにぎりが高いのには驚きました。いっしょに写っているのがこの家の次男。 彼が生まれて初めて撮った写真 も公開します。アルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港(サンチャゴ)でのスナップ。カメラが重いので、ちょっとピンぼけ(ぶれています)ですが。
チリで話されるスペイン語の特徴は、最後のSを発音しないこと。プンタアレナスはプンタアレーナ、プエルトナタレスはプエルトナターレ、ありがとうはグラーシアと発音します。最後のSをていねいに発音するペルーやボリビアとは対象的です。こんなことを書くと、かなりスペイン語ができると思われるでしょうが、いわゆるサバイバル・エスパニョールだけ。「〜はどこですか?」のDonde esta 〜?と「〜したい」のQuiero 〜。動詞は辞書で調べます。あとは、「いくらですか?」「ありがとう。」「はい」と「いいえ」。その他、少々。単語の語尾を上げれば、疑問文になるのです。数字は0が一つ違っても大変ですから、紙に書いてもらいます。(折り紙の裏が使えます。)
必要なことは、図々しさ。こちらから、行動をおこさないと、なにも始まりません。
南米で一番人気があるスポーツといえばサッカー。ルールさえわかれば、言葉がわからなくても楽しめるという点ではスポーツも世界共通語です。事前に日本で調べて、近々、オリンピックの南米予選があって、チリも出場することは知っていました。南米の出場枠は2です。プンタアレナスへ向かう飛行機で配られた新聞でを見るとPre-Olinpico(オリンピックの予選という意味だと思います)の文字とスコアが出ていて、どうやらアルゼンチンに勝ったようです。シドニーオリンピックにブラジルとともに出場を決めたと書いてあるように読めたのです。プンタアレナスのホテルで夜、サッカーのテレビ中継をやっていました。チリで一番人気のある「コロコロ」というチームの試合です。一人で見ていた男の人に、「チリはPre-Olinpicoで勝って、バーモOlinpico」と怪し気なスペイン語混じりの日本語混じりのスペイン語で話しかけました。喜ぶだろうと思ったのですが、うれしそうな顔をしないので「Chileno?」チリ人かと聞くと「Argentina」と言って親指でのどぼとけを切るジェスチャーをしました。「Argentina?」アルゼンチン人かと確認すると「Si」そうだ答えたので、これはまずい話題だと思ったのですが、一度出た言葉はもう戻せません。「Mundial Japon」親指でのどぼとけを切るジェスチャーをして「Argentina」。これで仲直りです。「Mundial 」はサッカーのワールド・カップのこと。フランス大会で日本がアルゼンチンに負けたことを思い出したのです。
プンタアレナスのセントロの マゼランの像 (下の 先住民の足 を触ると航海安全との言い伝えがある)
「最果ての街」 プンタアレナスの海岸 (港町演歌が似合う)
NAVIMAGのプエルトエデン号で見た 虹 。(カメラが広角でなかったため、二枚の写真を合成。)
プエルトエデン号の甲板。 チェスをする人、甲羅干しをする人、読書をする人など。
プエルトエデン号から見た オソルノ山(チリ富士・2662m)
飛行機の上から見た オソルノ山
プエルトモントの 渡し船の船着き場で出会った少年 (ポケモンのシャツを着ている。カブトの折り紙を頭に載せてもらった)
バルパライソの アセンソール (ケーブルカー)
バルパライソの 青空美術館
バルパライソからリゾート地 ビーニャデルマル を望む
バルパライソとビーニャデルマルを結ぶ 鉄道
バカシオーネス(バカンス)の季節で交通渋滞のない サンチアゴ
チリもつもれば http://www.geocities.com/Tokyo/Towers/1219/index.htm もしくは
三谷トラベルサービス http://chile-tour.com/mitani/index.html のページへ
ストップオーバーでバンクーバーに立ち寄ることができました。ここで二泊。夜は、NHLアイスホッケーとNBAバスケットボールをやっていたので、観戦することにしました。アイスホッケーでは地元カナックスに得点が入った時の他、 激しいボディチェック やパワープレーのピンチをしのいだ時などに大きな喚声がわきます。残念ながら、この日はカナックスが負けてしましました。バスケットボールはルールで、25秒以内にシュートしなければならないので、試合運びはスピーディーです。終止リードした地元グリーズリーズが快勝。お客さんは大満足でした。ハーフタイムだけではなく、短いタイムアウト(作戦タイム)の時間にも、マスコットやチアリーダーがお客さんを楽しませてくれます。グリーズリーズのマスコットの人気パフォーマンスがこの スーパーダンクシュート。
バンクーバー立ち寄ったもう一つのそして最大の理由は、ブリティシュ・コロンビア大学(The University of British Columbia)の
アジアン・センター
にある「パシフィック・ベル・タワー(Pacific Bell Tower)」を訪れること。ホテルにチェックインして、荷物を置いて、市内バス・BCブレイスでUBCへ向かいました。広大なキャンパスで道を尋ねながら、アジアン・センターへ。目指す鐘は正面入り口の脇にありました。
目黒区民センターの鐘楼
より一回り小さな鐘楼ですが、屋根はこちらのほうが重々しい。
見なれた鐘
がそこにありました。アジアン・センターの裏にはは
新渡戸稲造記念の日本庭園(
Nitobe Memorial Gardens)があります。立派な茶室もあり、いろんな説明が英語と日本語で書かれていましたが、パシフィック・ベル・タワーには残念ながら、何の説明書きもありません。「人間国宝・香取正彦氏が鋳られた梵鐘であること。香取正彦氏が寄贈されたものであること。この鐘は世界平和を願って鋳られたこと。この鐘は同じ鋳型で三つ鋳られたこと。一つは広島にあり、八月六日の平和祈念式典の黙とう(八時一五分)の時に突かれること。もう一つは香取正彦氏が住んでいた
目黒区に贈られ区民センター
にあること。」などの説明があれば、たまたまこの鐘に出会った人にも、香取正彦氏の願いが届くと思うのです。日本に戻るときにロスアンゼルスからバンクーバーへ行く飛行機の隣の席に座った女性がUBCの学生だったので、この鐘の話をしました。折り鶴をプレゼントすると、千羽鶴の話(佐々木禎子さんのこと)を知っているというのです。私の拙い英語の説明がどれくらい通じたか自信などありませんが、香取正彦氏と私の想いの幾らかは伝わったと思います。
バンクーバーには、アジア系の人たちが多く住んでいます。市内バス・BCブレイスに乗って黙ってさえいれば観光客だとは気付かれない雰囲気です。中国人が一番多いようですが、タクシーの運転手はインド人。ターバンを巻いているのでわかります。香港が中国に返還される時に、香港から移住してきた人もかなりいると聞きました。だから、バンクーバーの中華料理はおいしいということですが、残念ながら今回は市内の中華料理のレストランへは行きませんでした。ブリティシュ・コロンビア大学の学生食堂には、中華料理の食堂があり、そこで遅い昼食を食べました。
連絡先
kihei-koba@geocities.co.jp(小林 喜平)
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