このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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阪和電気鉄道クヨ500形付随制御車

 阪和電気鉄道クヨ500形付随制御車です。 京阪電気鉄道は、大阪 - 和歌山間で新しい高速電気鉄道の建設計画に参加、実際の鉄道建設は京阪系のスタッフにその多くが委ねられることとなりました。当初は、1,435mm軌間での建設も考慮されていましたが、建設中の鉄道省紀勢線に接続するため、鉄道省は将来の国家買収を付帯条件に免許を交付しました。このため阪和電鉄線は1,067mm軌間で建設されることになり、これにより、国鉄からの貨車直通、当時建設が進行していた紀勢線への直通が可能となりました。南海鉄道に対し、阪和電気鉄道はそれよりやや内陸寄りの農村地帯を、極力直線的に建設されたため、高速運転に適した線路となり、また架線電圧も、直流1,500Vで建設されました。起点は省線天王寺駅東側上部に阪和天王寺が設定され、1929年7月に、、阪和天王寺 - 和泉府中間と鳳 - 阪和浜寺間で部分開業し、1930年6月に、阪和天王寺 - 阪和東和歌山間が全線開業しました。モヨ100型電動制御車は、車体形状は車体長20000m、車体幅2810mmで、正面貫通路、貫通幌付きの2扉両運転台車で、扉間にシートピッチ1830mmの固定クロスシートが10組、車端部は戸袋部を除き、同じく1830mmの固定クロスシートがそれぞれ2組、戸袋部にはロングシートが設置されました。これらの車両は、軌間の相違はあったものの新京阪鉄道が開業時に投入した大型大出力電車デイ100形と概ね共通で、経営・技術両面における京阪の影響の強が推察できるものでした。モヨ100形、クヨ500形による超特急は、1933年12月に阪和天王寺 - 阪和東和歌山間45分運転で、表定速度81.6km/hとなり、営業運転される定期列車としては1950年代以前の日本国内最高記録で、戦後に国鉄特急「こだま」号が東京 - 大阪間を表定速度83.46km/hで走破するまで、実に26年間も破られない記録となりました。
 実車は1929年に製造された2扉車で、車体形状は車体長18300mm、車体幅2810mmで、車内はモヨ100形とほぼ同型です。モヨ100形、クヨ500形による超特急は、1933年12月に阪和天王寺 - 阪和東和歌山間45分運転で、表定速度81.6km/hとなり、営業運転される定期列車としては1950年代以前の日本国内最高記録で、戦後に国鉄特急「こだま」号が表定速度83.46km/hで走破するまで、破られない記録でした。車両の高性能に比べて、阪和電鉄は、南海鉄道に比べると、内陸の人口希薄な地域を走るため、経営基盤は、常に不安定であり経営面の混乱が続き、ついには、京阪電気鉄道は阪和から手を引くことになりました。1940年末には、阪和電気鉄道は「陸上交通事業調整法」に基いて南海鉄道に吸収合併され、南海「山手線」となり、1941年には戦争の激化に伴い、超特急は廃止されました。戦争が激しくなり、南海山手線は1944年5月、戦時買収により国有化、運輸通信省鉄道総局阪和線となりました。戦後は国鉄阪和線となりましたが、1953年の称号改正で一旦、モハ2200形、クハ6200形の私鉄買収車称号を与えられました。その後、阪和社形電車は高性能の故に、一部国鉄標準型部品に交換の上、 1959年にはクモハ20・クハ25形とされ、国鉄制式車になりました。 その後もクヨ500形は3扉車に改造の上阪和線で引き続き活躍し1968年に廃車されました。 

阪和クヨ500形PDF図面 A4 1/120

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