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神岡軌道とは、岐阜県飛騨市神岡町にある神岡鉱山と富山県富山市大沢野町間での鉱物や資材の輸送効率化のため「三井鉱山株式会社」が敷設した 鉱山専用軌道の事である。2006年12月1日に廃止された第三セクター「神岡鉄道」の前身にあたる。江戸時代より馬による輸送を行っていたが、明治期 の産業発展に伴う輸送量増加に対応するため、今より100年近く前の明治43年(1910年)に岐阜県吉城郡の土〜杉山間に総工費2万8800円をかけ 12ポンドレール軌間1.6フィート(480mm)の5kmの馬車軌道を敷設したのが始まりである。 (左:神岡軌道の概略図、右:馬車軌道時代の一こま。東町駅出発。大正時代。神岡鉱山写真史より) その後大正2年12月、当時の同社の神岡出張所の所長であった西村小次郎氏が個人名義で特許を得、富山県富山市(旧大沢野町)「笹津」までの延長 工事を大正3年4月に開始し、同4年の3月に完成させた。時同じくして、軌間を全線2フィート(610mm)に改軌、さらに16ポンドレールへの変更をおこない 総延長は23.8kmになった。当初大正3年中の完了予定であったが、9月に発生した水害により薄波橋が流出しため、薄波橋(着工:大正4年7月1日 完工:同10月3日 全長:300フィート(90m) 工費:4万8000円 施工:東京石川島造船所株式会社)を再架橋した。 工事は困難を極めながらも神岡方面への工事が進行し、遂に大正9年に総工費21万円(現在価値10億円超)をもって「鹿間」まで完工し、36.8Kmの 鉄道の開業に漕ぎ着けた。 (下記写真:薄波橋 出典:(社)土木学会附属土木図書館様HP>戦前土木絵葉書ライブラリー (社)土木学会附属土木図書館様掲載承諾済み) これを機に周辺町村が生活物資の輸送のため軌道の一般公開を懇願。会社側は願いを受け入れ線路、施設の改修、市街地乗りれのため鹿間〜船津町 (後の東町)間1.6kmを敷設して、大正11年に神岡軌道として発足、翌年7月21日に営業を開始した。 当初、輸送は馬力に頼っており、馬車隊は「笹津」・「東猪谷」2班に分かれ60人程度の馬引き従事していた。しかし、第一次大戦に入る戦時不況により 軌道の鉱物輸送が減少。会社側はこれを乗り切る為馬引きを減らし、大正15年5月10日には神岡鉱山に電気を送電する為に設立された神岡水力電気 株式会社(以下、神岡水電)※1から跡津水力発電所工事で使用した2t内燃機関車を譲り受け、運転を開始した。この試用により、有用な機械であること 証明され、昭和2に5台、3年に6台、3.5tアウストロダイムラー※2(ダイムラーのオーストリア支社)製内燃機関車を購入した。この人員削減と動力化は、 コスト減に貢献し、会社の危機を乗り切った上、運賃も下がり、山間部の住民の足としても更に活躍の場を広げた。地元の人からは「エンジン」や「ロコ」 (ロコモーションの略?トロッコが訛った?)と言われ親しまれ重宝された。 その後、国鉄飛越線(現:JR高山本線)の工事の進展により、神岡軌道は「東猪谷」付近に神通川橋梁※3(カンチーレバー式、全長:294m、水面から 57m、使用鉄鋼:550t、工費:15万円、基礎工事:株式会社飛島組、設計製作:合資会社東京鉄骨橋梁製作所、組立架設:清水組※4)を建設し、 対岸の「猪谷」(JR猪谷駅)に乗り入れた。工事は昭和6年7月21日に着手し、同年8月25日竣功、と言う早さで完成した。そして、昭和6年9月16日を もって営業を開始した。また、不要となった「笹津」〜「東猪谷」間、17.1kmを昭和6年9月19日付で廃止を届出、始点を「笹津」より上流の「猪谷」に 変更した。(下の写真は、架設途中の神通川橋梁。昭和6年8月ころ)
同年、神岡水電により新たなダム建設が計画が打ち出された。しかし、周辺の山林で切り出しを行っていた「飛州木材」が、木材の川流しができなくなる 事として、この計画に猛反対。※5 大規模な対立にまで発展したが、親会社である「三井物産」の仲介により鉱山軌道による代替輸送が決定され、 六郎に川から材木を引き上げるコンベアーを新設、3.5トン機関車の増備し、昭和7年3月8日付で、軌道は57万5千円で神岡水電に譲渡された。 神岡水電の管理時代になり、軌道はもともとの鉱物輸送は勿論、ダム建設の資材輸送に沿線の木材運搬に活躍した。また、耐久力を増すためレールも 15封度(7kg)から25封度〜35封度(12〜16kg)に交換された記録が残されている。 (写真で見る神岡鉱山 六郎地区のベルトコンベア) 昭和12年、東町発電所建設計画により浅井田地区に堰堤を設けることになり、営林署の木材の川流しが不能となるため、船津営林署の又六・金木戸 森林鉄道(昭和38年まで存続)まで8.19kmの浅井田線を建設した(昭和11年9月25着手、昭和12年3月1日竣工)。かくして、営林署の木材運搬 を始めた神岡軌道は、全盛期を迎えた。この頃の運搬量は、年間110、000トンに達した上、豊富な水量により電気事業も好調であり、年間8分の 株主配当をおこなったという記録が残されている。そして、時代は第二次世界大戦に突入する。 大戦中、電力統制により神岡水電は日本発送電に譲渡され解散、軌道の所属は、昭和17年9月19日に神岡水電から三井鉱山に戻された。 鉱山も軍の要請で緊急増産を実施。軌道もそれに対応する為改造工事を進め、便宜上、昭和20年1月16日付で地方鉄道に昇格した。昭和24年10月 1日には神岡鉄道として旅客輸送も開始、2往復ダイヤで運転された。また、戦時中、燃料不足から鉄道連隊よりK2蒸気機関車の払い下げを受けた。※6 (神岡鉄道従業員数 昭和29年3月31日時点 営業報告書より) 戦後、神岡鉱業、三井金属鉱業と所有者が変わる。日本は高度成長を経て、自動車中心の時代へ移行していった。地方鉄道は次々と廃線に追いやら れていった。神岡鉄道も例外ではなく、木材輸送はトラック輸送に変わり、軌道も距離を縮めていった。更にに時代遅れの施設により事故も四六時中発生。 監督機関であった名古屋陸運局も黙認する訳にはいかず、改良工事か廃止を鉱山側に促した。鉱山側は神岡への国鉄線の建設も決定し軌道の役目も 薄れつつある中、これ以上の存続は不可能と考え、軌道廃止決定を決議した。 しかし役目が薄れつつあったと言えども、即廃止できるほど無用だった訳ではなく、膨大な役目を止める事なく後に引き継がせる作業は困難を極めた。 とりあえず昭和37年に手始めに旅客輸送を廃止した。そして、昭和38頃には国鉄線工事が市街地まで進行、軌道は鉱物を輸送しつつ、工事を邪魔しない よう撤去を進めるという、神業的工事をしつつも、目立ったトラブルも出さず撤去工事はおおかた完了を迎える。 昭和41年10月、地元念願の神岡線(のちの第3セクター神岡鉄道)※7が開通。国鉄線開通まで大部分が廃止されていたが、「茂住」〜「猪谷」間は輸送 上の懸念から最期まで使用されていた。しかし、それも解消され、昭和42年3月27日午前10時、風唸る小雨のなか茂住亜鉛鉱を載せた最終列車が発車 明治・大正・昭和と災害・戦争を駆け抜けた激動の63年の歴史に幕を下ろした。 なお、本線25km、側線5kmは「15kg/10m・レール」で6千本、重さにして900t。枕木は8万丁にも上ったという。 (廃止後、40年経って山中に放置されている「フ16」)
※1 神岡水力電気株式会社は、三井鉱山と大同電力(関西電力の前身)の折半出資により大正11年8月に設立された会社である。 ※2 たいへん珍しい機関車であり、国内では神岡軌道のほか、森林鉄道で数例確認できる程度である。 ※3 土木学会ホームページ内、土木学会図書館>土木建築工事画報>第7巻10号のPDFに当時の施工記録が残されている。 ※4 清水建設ホームページ内、清水建設二百年作品集の1931年項目に神通川橋梁の写真が掲載されている。 ※5 ちなみに、飛州木材は庄川でも小牧ダム建設で庄川水電と抗争を起こしている。俗にいう、庄川流木事件である。 ※6 K2蒸気機関車の性能は悪く4年程度で廃車となった模様である。 ※7 2006年12月1日に廃止された。
「三井鉱山史-奥飛騨の交通発達史」 三井鉱山修史委員会編 「神岡鉱山写真史」 三井金属鉱業株式会社修史委員会事務局編/三井金属鉱業株式会社/書誌ID=20204440 NCID=BN02070068 「富山県議会史 富山県議会編/富山県議会事務局 「細入村史」 細入村史編纂委員会編/細入村 「大沢野町史」 大沢野町史編さん委員会編/大沢野町 「三井鉱山鉄道関連営業収支」 交通博物館所有 「鉄道廃線跡を歩くⅠ」 宮脇俊三編著/日本交通公社出版事業局 「鉄道廃線跡を歩くⅢ」 宮脇俊三編著/JTB 「土木建築工事画報 第7巻10号」 工事画報社 |
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