このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

                               発電所跡・南部砲台跡・弾薬庫跡



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弾薬庫内部
 面白いことに別子銅山の煉瓦造りの建物にデザイン構造が良く似ている

弾薬庫跡(案内板より)
弾薬庫跡は、山の傾斜面を現在の様に掘り下げて、深い谷間のような窪地とし、周囲は山肌で護(まも)られています。

 当時のモッコとスコップを用い、人力でこのような工事は並大抵のことではありませんでしたが、危険な弾薬を貯蔵するために周囲は強じんな防壁が必要でありました。
小島の地質は閃緑岩計(せんりょくがんけい)の岩石で、東側に斑れい岩が部分的にあります。何れも有色鉱物が多く岩盤が軟らかい為、要塞工事には都合がよかったであろうと想像されます。
小島砲台の備砲は28cm榴弾砲と24cm加農砲などで、主にそれらの砲弾を備蓄するための弾薬庫であったと思われます。
現在は屋根が落ちて煉瓦作りの側面が残るだけでありますが、弾薬という一番大事なしかも危険度の高い軍用品を貯蔵するために、非常に厳重な工事と完璧な設計が施されていることがわかります

 弾薬庫へと続く道  

 両側には椿やもみじなどが鬱蒼と生い茂

 弾薬庫跡 湿気を防ぐ為か、床が一段高くなっている

 
 地下室跡

 砲座跡

南部砲台跡(案内板より)
 この南部砲台は、小島の中で一番南側の砲台で規模も小さかったが、馬島から糸山間の来島海峡を防衛する配置にあります。
 当時の日本(陸軍)は、帝政ロシアの東アジアへの侵攻に対して、国内の沿岸に防衛対策として要塞の配備を進めました。
 石垣に石は、当時一個が3銭で、人夫の賃金が27銭であったと伝えられ、小島要塞の全構築費用は、当時の金で30万であったといわれています。
 砲台の設計図は、陸軍工兵大佐上原勇作(後の上原元帥)によって作成されました。整地工事は広島側の業者が請け負った労力だけでは足りず、今治側からも数百人が参加し、明治33年(1900)に終わったとされています。
 大砲の備え付け工事は郡の機密を保つ為、要塞司令官と地元有力者が選定した作業人員で勤め、厳しい秘密厳守を課し、近辺の地域住民にも守秘を強いていました。
 南部砲台跡には、竣工当時は軽砲(12cm加農砲)2門が備え付けられていました。現在は、砲座跡と地下兵舎が残るのみであります。 

発電所跡(火力発電所)
建物は全体に的に、きれいに残っているが屋根部分は最近葺きかえられたようだ

要塞は使用されないまま終戦を迎えたが意外な事に使われることに
戦時中、今治空襲に会った疎開者たちが島に戻り昭和30年頃まで住んでいたそうだ
多いときには10家族60人余りが住んでいた
       
 

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