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探照灯跡
小島砲台の歴史 (案内板より)
瀬戸内海は古代から大陸につながる海の道であり、様々な歴史の重なりと文化の広がりを持っている。中でも来島海峡は対岸の三原水道と共に芸予海峡を通過する交易船の主要航路であった。その来島海峡の中心部に位置する小島は、周囲約3kmの美しい島である。
19世紀末になると、西欧先進国の植民地拡大競争は激しくなり、その矛先は世界各地に向けられた。帝政ロシアの場合は、冬でも凍らない港を求めて南満州に進出し、大連に総監府をおき、旅順に軍港をつくり、極東艦隊を派遣して黄海を制したので、わが国は国家存亡の危機に見舞われた。この事態を重視した政府は露・独・仏の三国干渉後、東京湾や瀬戸内海周辺の要塞建設を積極的に進めロシア海軍の侵攻に備えた。このとき小島は「芸予要塞」に編入され、三原水道の大久野島と共に建設工事が始まった。そして中部、北部、南部砲台を構築し、司令塔、弾薬庫、火力発電所、地下兵舎などの付帯設備が相次いで建設され、明治35年(1902)完成を見た。小島砲台の調査設計には、城塞学の権勢であった陸軍工兵中佐上原勇作があたった。上原は都城の人。明治15年、フランス砲工学校に留学、築城工学を学んだ。帰国後、陸軍士官学校で教鞭を執る傍ら、日本各地の要塞建設を指導した。のち、上原は陸軍大臣となり、元帥に叙された。
しかし、小島砲台は一度も使用される事なく、明治38年(1905)9月、日露戦争はわが国の勝利に終わった。
戦争が終わると、もはや局地的な国防の必要もなくなり、小島砲台は大正13年に廃止処分された。そしてその2年後、軍用機の爆撃演習の目標に供され、のち、波止浜町(現今治市)に払い下げられた。ここに小島砲台は28年間にわたる軍事要塞としての役割を終えた。しかし小島要塞の遺構は100年経た今も明治の面影を留めており、特に英国式工法による赤レンガの建造物は美しく、歴史の証人として見事な光彩を放っている。
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