このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


 神社・仏閣参拝記(19)         

情けありまの水天宮(すいてんぐう)

東京水天宮
安徳天皇をお祀りしています
 
 平家とともにタッキー、いや源氏に追われて西へ落ち延びた安徳天皇は、壇ノ浦(山口県下関市)の合戦で、源氏の軍船に取り囲まれ、祖母の二位の尼に抱かれ、母の建礼門院と共に波間に身を躍らせました。時に1185年、安徳天皇8歳のことでした
 さて、この一行に仕えていた官女の按察使局(あぜちのつぼね)は、ひとり源氏の追っ手を逃れ、九州は筑後川に辿り着きました。局も壇ノ浦で共に入水しようとしたのですが、二位の尼に止められ、お前は生きて、われらの霊を慰めよ、との命を受けたのでした。


壇ノ浦にかかる関門海峡大橋
 局は川のほとりに小さな祠を建て、安徳天皇とその一族の霊を慰める日々を送りました。これが今に続く水天宮の起源と伝えられています。

 その後、有馬忠頼公により、現在の久留米市瀬下町に7000坪の敷地が寄進され、豪壮な社殿が造られました。(一度は見たいものです)

 

水天宮の社殿

情けありまの水天宮

 そんな、久留米にある神社が、なぜ東京にあるかというと、
 江戸時代、大名には参勤交代が義務づけられていました。藩主は、領地を離れ、江戸詰をしなくてはなりません。その間は、水天宮にお参りができないので、第九代頼徳公が、久留米から分霊をして、江戸屋敷内(現在の港区にあった)に、水天宮を祀りました。1818(文政元)年、これが東京に水天宮がやってきたはじまりです。
 
 本来、お殿様の屋敷神として祀られたもので、一般の人がお参りすることはできなかったのですが、江戸っ子たちの信仰は次第に高まり、塀越しに賽銭を投げ込む人が後を絶ちませんでした。遂に五の日に限り屋敷が開放され、参拝が許されました。

 人々は、「情け深い」ことを感謝する際に、有馬家と水天宮を洒落て、「情けありまの水天宮」と口癖のように言いました。「恐れ入りやの鬼子母神」という言葉は有名ですが、こんな江戸っ子の言い回しもあったんですね。

 さて、1871(明治4)年、水天宮は屋敷の移転と共に赤坂に移り、さらに翌年、現在の日本橋蛎殻町に移転したそうです。


実は、赤ちゃんを連れた夫婦とおじいちゃんばあちゃんで混雑してました。

安産・子育ての神様

 この水天宮、安産・子育てのご利益で有名です。参拝した当日も、赤ちゃんをつれた若夫婦とおじいちゃん、おばあちゃんという家族連れが多くご参拝されていました。

 安徳天皇と生母の建礼門院、外祖母の二位の尼が、そういうご神徳を持っているというわけではないようで、お祀りされているのは、天之御中主神(アメノミナカノヌシ神)という神様です。
 このアメノミナカノヌシ神、出雲大社でオオクニヌシ命を見張っていると思ったら、こんなところで安産の神様としてお仕事もされていたわけですね。

 そもそも、アメノミナカノヌシ神は高天原に最初に現れた神様で、天は宇宙、御中は真ん中、主は支配者、という意味ですから、宇宙の中心の神様、ということで、やはり安産の神様としてはふさわしいのかもしれませんね。


甘酒横丁にある双葉

双葉の名物「あまざけ」

お参りのお帰りには人形町の甘酒横丁へ

 このような参拝の楽しみというのは、お参りの帰りに立ち寄る食べ物屋さんというのが多いのではないでしょうか。水天宮へは東京メトロ半蔵門線の水天宮前駅で降りてもいいでしょうが、帰りには日比谷線の人形町駅まで散歩して帰るというのもいいかもしれません。

 日本橋人形町といえば、なんとなく「人形焼き」というお菓子かもしれませんが、途中にある甘酒横丁を明治座の方に向かって、少し入ったところにある、「双葉」という豆腐屋で、甘酒を飲んだり、豆乳ソフトクリームなんかをいただくというのもいかがでしょうか。

 夏の暑い盛りに参拝したので、冷たい甘酒が結構いけました。どうも甘酒というと冬の飲み物というイメージがありますが、案外、夏に冷たいのを飲むというのも、甘い物の持つ疲労回復効果みたいなもので、いいかもしれませんね。

 また、少し懐が暖かいくて、食事時なら、甘酒横丁を日本橋小学校の方にいった軍鶏鍋の 「玉ひで」 で元祖 親子丼(1,300円)なんていうのも、江戸好みの俗物ぽくっていいかもしれませんね。


水天宮はこんな社です

甘酒横丁


水天宮の下にある駄菓子屋さん
右の写真は、明治座
下の写真は、お芝居の出演者の名前を書いたのぼりです。

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