このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
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●御土居下同心と廿軒家の隠れ同心
また幕府八代将軍吉宗と尾張藩七代藩主宗春の確執は深く、尾張藩に謀反の疑い有りと幕府は多数の隠密を尾張藩に送り込み、宗春もこれら隠密を探索する隠密組織「隠密御用」を身辺警護するお手筒組内に組織した。 時代とともに尾張有事の図式は西の備えから幕府対尾張と変化して行きいき、これら表の組織と全く異なった危急時藩主脱出を主目的とし、忍駕篭を軽々担いだり、潜水の名手等の異能集団を擁した一群の半農を装った隠密武士集団「お側組御土居下同心(御土居下同心)」16家16人、後に18家18人が組織された。現在当時の組屋敷を偲ぶ物は何もなく跡地の名古屋市中区三の丸住宅脇に 名古屋市が立てた案内板 が有るのみ。 脱出経路は大曽根下屋敷→勝川→定光寺→そして木曽が表道であったが、秘密裏に信州路など他にも設けられそれら中継地点には代々家老成瀬家が配した帰農を装った武士集団を住まわせていた。 そのため区内には成瀬家配下の在地同心11名、その他周辺には60名の中間がおり、幕末には20人の同心と20名の中間が居がおり、それに由来し「廿軒家」(名古屋市守山区廿軒家、長栄地内)と命名された。 この地は表街道が木曽へ行くのに対し、大曽根下屋敷を経て水野街道(現瀬戸街道)を通り木曽又は信州へ脱出する備えではなかったかと言われている。小幡廿軒家同心の結束は堅く幕末明治維新では主家に従い長州・鳥羽伏見と転戦した。
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