このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
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●法輪寺と埋蔵金伝説
元々は860年(貞観2)大森城主尾関勘八郎の手により現在地より南へ1km余り、元郷地区に創建された天台宗の尼寺正宗庵に始まる。 その後室町時代、そして1584年(天正12)小牧長久手の戦いのおり焼失。江戸時代寛文年間、徳川家の家老酒井忠次(?)により現在地に再建され、一時普香(光)山正法寺と号していた。 山門をくぐると左手に源義経の忠臣、佐藤三郎継信、四郎忠信、そしてその母乙和御前の1メートルに満たない小さな宝篋印塔が三基ある。以前は木立に埋もれるようにあったが今は立派なコンクリート製祠に祀られている。鎌倉時代、佐藤兄弟は源義経が平家討伐のため奥州にて決起した時随行した猛臣と言われている。 兄は壇ノ浦の戦いで、弟もその後自害した。そんな兄弟の安否を気遣い母はやがて奥州を旅立ち京を目指したが、大森地区にさしかかった時病に倒れ正宗庵で静養していた。一方兄弟の従僕は状況を知らせるため京から奥州に向かう途中この母の話を聞き大森で再会、母は兄弟の最後を聞き嘆き悲しみ、奥州より仏像を取り寄せ墓を建立、同寺に祀ったと伝えられる。 法輪寺が騒動に巻き込まれたのは、その母が寺が荒廃した時再興のため、黄金千枚を埋蔵した旨の書き付けが仏像の下(一説には釈迦三尊像に書き付けられていたとか)から発見された事による。 その一文「以後為造立金子千枚 此御寺牛刀二日置之也 六月吉祥日」と書かれていた。 ※この仏像の建立は長久手の合戦以後、正法寺と号していた江戸時代の物と思われると言われ、この埋蔵金伝説はやはり伝説の一つではないかと考えられている。 また、佐藤兄弟とその母のお話は『平家物語』『義経記』『源平盛衰記』などに書かれ、琵琶法師などによって全国に流布され、幸若舞曲「八嶋」や古浄瑠璃正本「やしま」などでも語られ、そのためかこれに類する伝説を持つ所は他にも少なく、同寺もその一つであろう。 法輪寺の前身、正宗庵があった元郷地区では昭和の中頃までスコップ片手にあちこち掘り返したと言われるが埋蔵金は見つからず、候補地の一つ脇田地区には昔「死田」と呼ばれ、ここを掘った人は死ぬと云う言い伝えのあった所があり、現在その辺りには守山警察署が建っている。 福島県福島市にある佐藤一族の菩提寺「医王寺」には二人を失って嘆き悲しむ年老いた義母、乙和御前を慰めようと継信、忠信の妻たちが夫の甲冑を身に着け、凱旋の雄姿を装い母を慰めたという故事にちなんだ武装の嫁の木像(1965年/昭和37年製作)が安置してある。 また同様の物はお隣宮城県白石市の田村神社境内「甲冑堂」にも安置されており、松尾芭蕉は「おくのほそ道」のおり同所を訪れ「笈も太刀も五月に飾れ帋幟(かみのぼり)」と詠んだ。
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