このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
名鉄瀬戸線小幡駅より北東へ延びる県道名古屋多治見線。古くより龍泉寺街道と呼ばれ尾張藩祖徳川義直公墓所定光寺、また龍泉寺の参詣道として賑わい、近年では都市化も著しく交通量も増大、ガイドウェイバス「ゆとりーとライン」開通など日日変貌を遂げている吉根・下志段味地区。 龍泉寺辺り松ヶ洞古墳群を左右に見てかつては七曲がりと呼ばれた急坂を下ると小幡丘陵に続く太鼓ヶ根(富士ヶ嶺)。一帯が平地となり庄内川河岸段丘と接する吉根観音寺裏の越水古墳。県道に戻り北東へ約2.5km、かつて小丘陵が舌状に延びた標高40〜60mの低い尾根の北端に有った5基の笹ヶ根古墳群。同古墳群より北へ300m程、尾根が庄内川に落ち込む辺り、吉根神明社一帯の7基の上島古墳群。笹ヶ根古墳群より県道を北東へ約500m、笹ヶ根嶺と相対した尾根に有った3基の深沢古墳群、更に県道を東北へ約400m東名高速道路ガード下交差点を北へ約300m、守山パーキングエリア内に有った5基の東禅寺古墳群。東名高速道路ガード下交差点手前を南へ80m程奥へ入った2基(?)の日の後古墳群。 吉根地区は志段味地区同様大規模土地区画整理事業が昭和60年代前後より行われ、県道名古屋多治見線(龍泉寺街道)の拡幅、付け替え工事等により丘陵が削られ地形が著しく改変され22ヶ所有ったと言われる遺跡や46基有ったと言われる古墳のかなりの数は滅失した。 | |
龍泉寺の坂を下った県道は古くは舌状に伸びた太鼓ヶ根丘陵北端を迂回していたが大規模区画整理事業と共に付け替えられ丘陵先端を直線的に切り取り笹ヶ根地区を横切ることとなった。かつての村的景観は激変し住宅展示場の様な町並みと大型ショッピングセンター等進出し新しい町へと変貌し古墳等多くは滅失した。 | |
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笹ヶ根1号墳 | ![]() 赤色顔料が施された割竹型木棺を納めた直葬粘土槨は全長4.9m、幅約70〜55cm。外部施設は見あたらなく副葬品は櫛、鉄斧、皮袋に入れられた刀子、「上方乍竟□大工子」銘の直径12.6cmの半肉彫獣帯鏡(上方作系浮彫式獣帯鏡)が出土。 5世紀中・末頃の築造と考えられ同古墳群では最古か。しかし他の半肉彫獣帯鏡出土例などから4世紀末に築造年が遡る可能性もあり、この地方では最古の部類の白鳥塚古墳、守山白山古墳と同時代の可能性もあり、区内他の古墳群に先駆け独立した集団の可能性も考えられると言う。出土物は名古屋市博物館蔵。滅失。 写真上 1号墳より出土した6像式半肉彫獣帯鏡。銅鏡は銅、錫と少量の鉛の合金で作られ鋳造当時はピカピカと輝いていた事でしょう。 半肉彫獣帯鏡は庄内川右岸、笹ヶ根古墳群より西へ直線距離3km程、5世紀後半の笹原古墳(愛知県春日井市・滅失)より奈良県明日香藤ノ木古墳出土と同范の7像式半肉彫獣帯鏡が出土しており、同型鏡は群馬県高崎市観音山古墳、滋賀県山下古墳そして朝鮮半島百済第25代武寧(ぶねい)王陵からも出土しており、同鏡は他に韓国慶尚南道からも出土、朝鮮半島との何らかの結びつきも考えられる。 |
笹ヶ根2号墳 | 1号墳東南約90mの円墳。昭和40(1965)年・58(1983)年の発掘調査によれば、径19.5m、高さ約1.8m。西向きに開口部を持ち羨道部が失われていた横穴式石室の長さは9.4m、幅1.8〜2.2m、わずかに胴部が張る徳利形。石室内からは金環、銀環、琥珀・ガラス等の玉類、鉄斧、刀子、直刀、鍔、暗文を施した畿内的要素のある土師器など出土。外部構造から円筒埴輪片が出土、出土品から築造は6世紀末頃か、そして追葬は7世紀中頃まで行われていたと思われる。 |
笹ヶ根3号墳 | 2号墳の北約70m、径20m、高さ1.7mの裾部に川原石の葺石帯を持った円墳。内部には先に埋葬されたと思われる北棺と長さ3m、幅0.5m赤色顔料が施された南棺の2つの木管が直葬されていた。それぞれ副葬品として直刀が出土、他須恵器片が出土。5世紀末の築造か。滅失。 |
笹ヶ根4号墳 | 2号墳の南50m、昭和58(1983)年調査、径約19mの円墳。玄室長6.2m、奥壁幅1.6m、中央部幅2.2m、わずかに胴部が張る徳利形片袖式横穴式石室。玄室、羨道は框石、川原石と棺床が異なり出土物は壺、高坏の須恵器。石室構造は上志段味白鳥1号墳と似ており基底石外側プランは笹ヶ根2号墳より一回り小ぶりだが等しく出土品から築造は6世紀末頃か。滅失。 |
笹ヶ根5号墳 | 1〜4号墳とは異なる南側の舌状に伸びた尾根の最先端、祟り伝説を持った祠の辺り、盛り土など既になく存在が疑問視されていたが発掘により約1m位の周溝を持つ長径10m、短径8m程の方墳かと思われる。南向きに開口した横穴式石室の石材の多くは既に抜き取られていたが、玄室部長さ3.6m、奥壁幅1.1m、中央部1.3m、玄門部幅0.7m。やや昇り勾配で少し胴の張った徳利形横穴式石室。盗掘破壊により遺物の出土は見られず築造年は遺物の少なさから推測では6世紀後半から7世紀前半と思われる。滅失。 |
※笹ヶ根古墳群は築造時期が集中してなく、長期にわたり造墓活動が続き、築造順は1号→3号→4号→2号墳→5号墳の順であろうと研究者は言う。 |
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