このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




●松ヶ洞・川東山・牛牧地区の古墳
※遺跡位置は 「守山区遺跡分布図」 の頁に有ります。

吉根地区と小幡・守山地区の中間に位置し、西流する庄内川を見下ろす辺り。牛牧地区には縄文時代に遡る複合遺跡の牛牧遺跡、弥生時代の西城遺跡、弥生・古墳時代の牛牧離レ松遺跡等の遺跡が点在していたが、早い時期から開発が進み遺跡環境は必ずしも保たれていない。

●松ヶ洞古墳群




県道名古屋多治見線(龍泉寺街道)北西側の松ヶ洞1・2・3・4号墳辺りの雑木林

写真左 1・2・3・4号墳辺りの切通し道
写真右 県道南東側の5〜19号墳辺りの雑木林。
    年々宅地化が進みこの森もやがては無くなる可能性が大である。
松ヶ洞1号墳北支群 直径7.5m、高さ50cmの円墳。
松ヶ洞2号墳北支群 1号墳の西南約50m。直径14m、高さ1.3cmの円墳。30〜50cmの川原石が従来は散乱。坩状の須恵器片採取。
松ヶ洞3号墳北支群 2号墳の西約30m。龍泉寺城北、直径15m、高さ1.6mの円墳。北支群中最大。
松ヶ洞4号墳北支群 2号墳の西約20m、3号墳前。直径15m、高さ2mの円墳。
松ヶ洞5号墳中支群 北支群南東、標高約75mの県道に沿った丘陵部先端に位置する。直径9m、高さ1mの円墳。
松ヶ洞6号墳中支群 5号墳東約20m。直径9m、高さ75cmの円墳。
松ヶ洞7号墳中支群 6号墳東約20m。直径10m、高さ1mの円墳。
松ヶ洞8号墳
中支群 7号墳東約30m。
庄内川が龍泉寺下辺りで大きく西に流れを変え、県道に ガイドウェイバス「ゆとりーとライン」 が合流する東丘陵。
東、中央、西の三群に分かれた19基の5世紀後半から6世紀前半の短い間に集中的に作られた多様な規模、形態の古墳群。

8号墳は小さな円墳の群集墳の中、この地方では珍しい一辺8.4m、高さ1m余りの小型方墳。
発掘調査の結果、墳丘裾部分より円筒埴輪列、朝顔型埴輪などが出土、総計64個程が四辺を囲っていたと思われるがその半数程35個体が確認された。また脚付七連杯や大型須恵器片、粘土槨に覆われた墓室には酸化鉄朱で赤く染まった2.4m、2.6mの二つの割竹型木棺が直葬されていた。棺内からは六鈴鏡、蕨手文鏡、勾玉、色ガラス玉、鉄剣、刀子、鉄鏃等が出土。墳丘部からは葺石と円筒埴輪、朝顔型埴輪、須恵器大甕、頂部からは家型埴輪(高さ66cm・間口55cm・奥行29cm)等多くの出土物があり小型古墳の割に多くの出土物、特に鏡、鉄剣等が出土し武人と女性が葬られていた可能性が高く、この群集墳のリーダー的人物ではないかと研究者は言う。
5世紀末、小幡・守山地区の集団が前方後円墳を作り始めた頃、同地区の勢力は小型群集墳に終始しており、独立した小勢力または小幡・守山勢力の従属的集団だたのではないかと思われる。
出土物は現在名古屋市博物館に保管展示されている。
8号墳を含む中支群は戦前までは龍泉寺の寺領で、森は手つかずの状態で古墳等非常に原型を保っていたが、戦後は寺領が開放され開発のため多くの古墳が滅失した。※8号墳想像図(イラスト:筆者)
松ヶ洞9号墳中支群 8号墳東約20m。直径16m、高さ1.5mの円墳。粘土槨2基、木棺直葬1基が埋葬されており一部に赤色顔料が認められる。鉄製馬具・武器、舶載品複環双葉形鏡板等、墳丘裾からは須恵器、円筒埴輪が出土。
松ヶ洞10号墳中支群 8号墳北約15m。直径7m、高さ60cmの円墳。
松ヶ洞11号墳中支群 9号墳東約30m。直径10m、高さ1mの円墳。
松ヶ洞12号墳中支群 11号墳東約60m。直径12m、高さ1mの円墳。
松ヶ洞13号墳中支群 12号墳東約20m。直径18m、高さ1.7mの円墳。墳丘西裾より須恵器、円筒埴輪出土、葺き石が認められる。群中最大規模。割竹形木棺痕有り。
松ヶ洞14号墳中支群 13号墳東約15m。一辺10m程の方墳。幅1.5〜1.8mの周溝遺構有り。須恵器片出土、過去に直刀出土の記録有るも所在不明。
松ヶ洞15号墳中支群 14号墳約東30m。直径9m、高さ1mの円墳と従来考えられていたが、近年の発掘において不定型な帆立貝式前方後円墳の可能性があり、畿内系円筒埴輪が出土したことにより同古墳群の人々と畿内との関連が考えられる。
松ヶ洞16号墳中支群 14号墳約東40m。直径10m、高さ1mの円墳。
松ヶ洞17号墳東支群 中支群南東30mの丘陵。直径10m、高さ1mの円墳。
松ヶ洞18号墳東支群 17号墳約西50m。直径8m、高さ60cmの円墳。
松ヶ洞19号墳東支群 14号墳約西20m。直径13m、高さ1.5mの円墳。

●小幡緑地1〜3号墳
小幡緑地公園芝生広場北の小さな舌状尾根の先端部に位置する3基の古墳。
旧古墳台帳では松ヶ洞古墳群の一つと数えられていたが松ヶ洞古墳群とは異なる丘陵面のため独立した古墳群とされた。
雑木林の中にわずかにマウンド状の高まりを見ることが出来るが、一面の雑木林で案内板などなく古墳を見つけるのは容易ではない。
小幡緑地1号墳
(旧松ケ洞20号墳)
直径15m、高0.6m程の円墳。残存
小幡緑地2号墳
(旧松ケ洞21号墳)
直径15m、高1.2m程の円墳。一部削られているが残存
小幡緑地3号墳
(旧松ケ洞22号墳)
直径18m、高2.0m程の円墳。残存

●川東山古墳群
松ヶ洞古墳群南西1km程、小幡丘陵から流れ出た白沢川が西に北へ流れ浸食谷を作り、やがて西流し庄内川に合流する辺りの丘陵。9基の5世紀後半から6世紀前半の短い間に集中的に作られた古墳群。
川東山1号墳西グループ 丘陵先端にある直径35m、高さ1m横穴式石室を持つ円墳。短頸壷、切子玉、直刀、鉄鏃、馬具等出土。
川東山2号墳西グループ 1号墳の北約20m。直径10m、高さ0.5m。長さ4m、最大幅1.5mの西南に開口した横穴式石室を持つ円墳。蓋杯、高坏、直刀、刀子が出土。
川東山3号墳西グループ 2号墳の東約15m。直径12m、高さ1mの円墳。
川東山4号墳西グループ 西グループ 3号墳の南約15m。直径15m、高さ0.5mの円墳。多量の円筒・朝顔型埴輪片、須恵器蓋杯等出土。しかしながらこれら埴輪は同時代の尾張型とは異なり他系統の物で有るという。西グループの中では古いタイプで6世紀前半の築造と考えられている。
川東山5号墳西グループ 4号墳の北約500mの丘陵頂部の庄内川を望む断崖上。直径15m、高さ1mの円墳。南に川東山遺跡がある。
川東山6号墳東グループ 5号墳の南東約200m。直径5m。不整形な円墳。
川東山7号墳東グループ 6号墳南約40m。直径16m、高さ1.5mの円墳。組合せ石棺、直刀、須恵器等出土したと言う。
川東山8号墳東グループ 7号墳北約40m。直径20m、高さ1mの円墳と思われるが直接の遺構は見つかっていない。鶏形須恵器片、短頸壷、漆喰状白顔料が付着した脚付短頸壷片等が出土した事から、ここ又は近くに古墳が存在した可能性が高いと言う。
川東山9号墳東グループ 8号墳南西約30m、直径15m、高さ1mの円墳。松坂公園(松坂町)東南角に築山として現存。

※大正8年、東春日井郡守山町大字川山頂古墳よりの出土品として蓋壷、広口壷、堤壷、円筒器台片、高坏等須恵器と直刀が保存されていたが、この古墳の場所を現在特定するのは困難。
※川東山古墳群東グループ内には縄文〜古墳時代に至る石鏃や須恵器を出土した散布地、川東山遺跡が有る。
※川東山古墳群は1・2・3・4号墳を西支群、5・6号墳を北支群、7・8・9号墳を中支群と分類する場合も有る。
※1964、65年川東山古墳群丘陵下、標高20〜30mの河岸段丘上に有った牛牧離レ松遺跡の発掘が行われ、弥生時代の方形周溝墓を多数発掘。しかし続く古墳時代と思われる高坏、広口壷、形象埴輪片、円筒・朝顔形埴輪片等多くの出土物もあり古墳時代にも造墓活動が続いていたと思われる。
※川東山古墳群の石材は、戦国時代、同所より西方約200m、白沢付近に織田寛近(?)により築城された川村城に転用されたと言われ、また慶長15(1610)年、名古屋城築城に際しても多く持ち去られたと言われている。


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