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名古屋市内(札の辻から矢田) |
この下街道探訪は「下(した)街道(善光寺街道)」頁の拡大版で西の「札の辻」より東の「槇ヶ根追分」までを記載、守山区分は
「下(した)街道(善光寺街道)」
を参照してください。 名古屋の中心部は城下建設のおり武家屋敷を中心に碁盤の目に区画され、戦災により焼け野原となった後もこの区画が基となっている。 札の辻を起点とした下街道も市内は直線的部分が多くわずかに相生町辺りに道路を屈曲させた枡形が造られたにすぎず、大曽根の大木戸を過ぎ城下を外れると街道はそれまでの直線から緩やかに弧を描き東へ向かう。 |
![]() | 札の辻 慶長18(1613)年、本町通と伝馬町通交差点に伝馬会所が開設され、正保元(1644)年には高札場が設置され札の辻と呼ばれるようになり、次いで寛文5(1665)年には飛脚会所が置かれた。当時この辻一帯には今に続く伝統有る商家も多く城下一賑わった所であった。 写真は伝馬町通本町交差点にある「尾張名所図会・傳馬会所札の辻」図のモニュメント。(名古屋市中区) |
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伝馬町通本町(現札の辻) 交差点を南へ行けば熱田神宮を経て東海道宮の宿、西へ行き伝馬橋を渡れば美濃路を経由し垂井宿にて中山道と合流、北へ行くのが下街道。京町通を過ぎ真っ直ぐ行けば名古屋城本町御門、京町を東へ折れれば佐野屋の辻。現在札の辻辺りは昼間は商社が軒を連ねるビジネス街、夜は錦三(きんさん)と呼ばれ名古屋一の歓楽街として夜な夜な賑わいを見せている。(名古屋市中区) | 久屋大通公園 京町通りを東へ折れ程なく、戦後名古屋の復興を象徴する中心街を貫く二本の百メートル道路。東から西へ若宮大通り、南北にこの久屋大通。真下を地下鉄名城線が走り、道路中央公園部分には建設当時(昭和29(1954)年竣工)高さ180m東洋一と言われた集中電波塔「名古屋テレビ塔」がある。(写真中央奥ややかすんで見える。名古屋市中区) | 鍋屋町通り 久屋大通を横切り程なく、都心にあってレトロな鍋屋町商店街。西口には尾張の鋳物師を統括した水野太郎左衛門家とその末裔加藤忠三郎氏工房 (尾張の鋳物師頁参照) 、通り中程北側奥には「尾張名古屋は士朗(シロ)でもつ」とまで謳われた俳人井上士朗宅跡 (井上士朗頁参照) 、そして通りに面して石製梵鐘のある圓明寺 (代換梵鐘頁参照) が続きやがて東口佐野屋の辻に至る。(名古屋市東区) |
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佐野屋の辻/相生町の枡形 鍋屋町通り東、街道は東から北へ進路を変え、その北西角に酒の佐野屋、東北角に味噌を商う佐野屋があった事からいつしか佐野屋の辻と呼ばれるようになった。国道19号線拡幅のため辻はなくなり平田(へいでん)町交差点となり、交差点を曲がり旧街道に戻るとやがて相生町、中程に防御機能の枡形が造られており今も道は屈曲している。(名古屋市東区) | 油商熊野屋(熊田家) 相生町付近は城より東へ2km程、武家屋敷は途絶え町屋となり多くの商家が軒を連ねていた。今も住宅と会社・商店が混在し、相生町北口近くには享保10(1725)年創業、古くは尾張藩のご用も務めた油問屋熊野屋が有り、現在店頭はビルになっているが奥の建物は文化5(1808)年に建てられた物で数々の古文書を有していると言う。(名古屋市東区) | 赤塚大木戸付近 相生町を北進するとT字路に突き当たり街道は再び東進する。この辺り時代により位置がやや異なるが大木戸(大曽根の大木戸)が設けられ、原則として夜四つ時(午後10時)から朝六つ時(午前6時)の間は閉鎖されたが木戸番の許しを得れば潜り戸を通り抜ける事も出来、現実はかなり弾力的に運用されていたよう。(名古屋市東区) |
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大曽根の坂 一帯は名古屋台地の北端に当たり西から稲置街道(上街道)清水坂、古い言い伝えのある尼ヶ坂と坊ヶ坂、そしてここ大曽根の坂。坂の上を坂上町と呼び商家や茶店、煮売屋などが並ぶ繁華な所であった。坂の途中本覚寺辺りには高札場が設けられ、古来より景勝地として知られ多くの文人墨客が訪れ、右記芭蕉も訪れ歌を詠んでいる。街道は大木戸を抜けるといよいよ城下を外れ郊外へ向かう。(名古屋市東区) | 三日月塚(了義院内) 大曽根の坂より少し東へ入った同寺へ寛保3(1743)年10月、芭蕉50回忌に際し五条坊木児(京町糸屋伊藤彦六)が建立した。貞享5(1688)年芭蕉が同所付近で詠んだ「有とあるたとへにも似ず三日の月」の一句が刻まれている。現在は昭和20年10月戦災で破損した碑は復元され、境内には原碑と復元碑そして新しく造られた碑と三基が建てられている。(写真右が被災した原碑、左が復元碑)(名古屋市東区) | 徳川園・徳川美術館 尾張藩二代藩主徳川光友の隠居所大曽根下屋敷跡、その後家臣に譲られ明治維新後再び徳川家の邸宅となるが昭和6(1931)年名古屋市に寄贈され徳川園として公開された。平成16(2005)年には池泉廻遊式の大名庭園に改装された(有料)。園内には国宝源氏物語絵巻を有する徳川美術館(名古屋市東区)、家康お譲り本を収蔵する蓬左文庫がある。※古来熱田神宮を蓬莱の宮と言いその左方向にある名古屋城を蓬左城とも呼び、文庫名もそれに由来している。 |
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大曽根西近辺/大曽根商店街 大曽根の坂を下り中町から四ツ家そして大曽根西辺りを朝日町と古くは呼び、西方向から城と大曽根下屋敷(現徳川園)を結ぶ御成道が合流、今はやや北西に移転したが由緒有る料亭「十洲楼」なども有る。大曽根地区は昭和の時代には市内北部を代表する歓楽街であったが平成元(1989)年レトロなアーケードのある商店街は取り壊されオズモールと呼ばれる新しい商店街として生まれ変わった。(名古屋市北区) | 大曽根東/瀬戸街道追分 大曽根一帯は名古屋の北の玄関として古くより賑わい、今もJR中央線、名鉄瀬戸線、地下鉄、市バスのターミナル駅としてその賑わいは今も続いている。大曽根東口道標を北へ進むと下街道、北東へ折れると瀬戸から三河へ通じた瀬戸街道(水野街道)、初代藩主徳川義直公の定光寺墓所(愛知県瀬戸市)への参詣道。当時は多くの茶店など有り賑わっていた。写真前方が大曽根東交差点、右がターミナル駅。(名古屋市北区) | 瀬戸街道/矢田商店街 大曽根東口道標を北東へ折れる瀬戸街道は矢田村東で矢田川を渡り守山村から各村々を経て瀬戸方面へ通じた、近世に入っては瀬戸から積み出される陶磁器の重要搬出道路であった。矢田木ヶ崎の長母寺は鎌倉時代無住国師により再興され戦前まではその祭礼は大変な人手で瀬戸街道は多くの参詣客で賑わったと言う。同寺は明和4(1767)年矢田川の大洪水により流路が寺の南から北へと変わり守山村の飛び地となっていた。(名古屋市北区) |
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山田天満宮/金神社 四代将軍家綱の文教奨励に応え尾張藩二代藩主光友が寛文12(1672)年太宰府より勧請。上野天満宮(名古屋市千種区)桜天神社(名古屋市中区)と共に名古屋三天神と言われる。境内の金(こがね)神社は延享3(1764)年に建立され銭洗い弁天として信仰を集め、近年では宝くじにも霊験有りとかで当選御礼のお札も目に付く。(名古屋市北区) | 山田重忠旧里碑 名古屋市北東部から小牧・春日井・瀬戸市一帯は古くは山田荘と言われ山田氏の本貫地で有った。山田重忠は源経基の末裔で木曽源氏の一員として京で承久の乱(承久3(1221)年)を戦うが討死。弟明長は逃れ勝川に地蔵寺を建立し菩提を弔い一族はその後も当地一帯の有力者として存続した。同所はまた大正13年新愛知新聞社(現中日新聞)が選定した名古屋十名所の一つ。時代により差違はあるが他は熱田神宮、名古屋城、笠寺観音、闇ノ森、榎ノ権現、櫻田勝景、圓頓寺、久屋金刀比羅、天理教々務支庁がある。(名古屋市北区) | 金虎酒造 下街道に限らず旧街道には今も屋敷を構えた造り酒屋が目に付く。弘化2(1845)年初代大阪屋善兵衛はこの地で質店を営み味噌たまりを製造販売、後酒の販売も手掛けた大阪屋久左エ門(飯田氏・代々この名を名乗り通称大久)から暖簾分けされ造り酒屋大善を開業。三代目善兵衛の時寅年生まれと金鯱に因み屋号を金虎とし同名の清酒が発売された。下街道はここより程なく矢田川山田の渡しへ至る。街道時代には橋はまだなく徒歩にて渡っており、渡れば瀬古村(守山区)に到着する。(名古屋市北区) |
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