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●守山点描 その4

高速道路
(右) 東名高速道路:下志段味〜四軒家地内
2018年3月24日に「守山スマートインターチェンジ」が開設された。
(左) 名古屋第二環状自動車道(名二環):川東山〜原境町地内

庄内川大橋:長さ279.5m。名古屋第二環状自動車道(国道302号)通称名二環
すいどうみち緑道(川宮・川北〜廿軒家) 1910(明治43)年、愛知県犬山市木曽川より取水する「犬山系導水路」の工事が始まり1914年(大正3)、名古屋市千種区鍋屋上野浄水場まで23(27)kmが完成。
現在毎日40万トンの水を名古屋市東山配水池・猪高配水場に給水していて、同所には直径2m二本と1.25m一本、併せて三本の導水管が埋設されている。しかし当初は公園化されず汚れ放題の溝となっていた。
区ではこの荒れ地の整備を1980(昭和55)年より工事に着手し翌年、幅約8m、全長2.5km余の街路樹の美しいその名も「すい
どうみち緑道」として再開発した。
写真右は春日井市内に展示してある、奥:2m 手前:1.2mの実物見本。


▲新池(地蔵池) (八竜緑地 大森八竜地内) 東部丘陵(現小幡緑地公園一帯)には自然地形が作った池、砂防ダム、溜め池などが多くあり、八竜一帯の湿地の水源となっており静かな環境を保っている。
同池は江戸時代の地誌『尾張徇行記』に「釜ヶ須池」とあり、戦後間もない頃同池で入水自殺した方の霊を弔うため地蔵が池の中の竪樋の上に祀られていることから、別名「地蔵池」とも呼ばれている。

▲露地のある家並み旧大門地区
(鳥羽見地内)
 旧字名大門(だいもん)地区、現在鳥羽見地区の一部は長母寺(現名古屋市東区)の南を流れていた矢田川が1767(明和4)年の大洪水にて氾濫を起こし川筋が長母寺北へ変わってしまい、その折り流失した長母寺北西大門地区の人々が移り住んだ所。また戦後の建てられた長屋が現在でも一部に残っており露地のある町を形成している

▲東尾張病院(吉根長廻間地内) 1950(昭和25)年、国立療養所志段味荘として結核療養所として発足。
1969(昭和44)年、精神科、神経科、内科、歯科を診療科目に加え1974(昭和49)年、東尾張病院と改称。機構改変にて現在は独立行政法人国立病院機構東尾張病院と改称。心を病む方の治療、特に若者の精神治療、精神科訪問看護等を実施。

▲守山プール(市営・村合町山下公園内) 25m、7コースと幼児用(大人300円、子供・シニア100円)プールを持つ。老朽化が著しく代替施設としてゆとりーとライン小幡緑地駅横に室内プールを持つ守山スポーツセンターが建設された。なお志段味スポーツランド屋外プールは地盤沈下等のため2009(平成21)年度末をもって閉鎖された

▲愛知用水(上志段味地内) 水不足に悩んでいた知多半島の人々は木曽川の水を半島にと長年願っており、1947(昭和22)年、大干ばつを契機に国に陳情。1955(昭和30)年、世界銀行の融資を得て5ヶ年計画にて木曽川牧尾ダムを水源とする大用水工事が始まり、1961(昭和36)年9月30日全長約112kmの大工事は竣工となった。そして知多半島は木曽川の水で潤う事となった。写真は東谷山下をトンネルで抜け南下する愛知用水。

▲阿弥陀寺相阿彌十七世家元碑(西城二地内) 華道相阿彌流は室町時代、足利八代将軍義政の同朋衆の一人にて絵画、華道、香道そして龍安寺の石庭造りと才を発揮した相阿彌真相を祖とし京都等持院より名古屋善導寺に伝わり、明治中頃17代今月庵宗甫の時東京に本拠を移している。明治40年3月相阿彌門人・裏千家門人建立

▲しだみ学園(旧親愛館)(下志段味地内) 障害者支援施設。

▲一粒荘(下志段味地内) 
障害者支援施設。
右:国立研究法人産業技術総合研究所中部センター
材料分野における国際産業競争力強化を目的とした産学官連携機構。
左:先端技術連携リサーチセンター

産・学・行政が連携し先端技術に関する研究が行われている。
※下志段味名古屋サイエンスパーク内




間黒神社(幸心一) 創建は鎌倉時代と言うが社伝によれば尾張初代藩主義直の時代、1636(寛永13)年頃産土神として祀られたと言うが詳細は不明。祭神は須佐之男命、多紀理姫命、多岐津姫命、大山祇命、市杵島姫命、天照大御神。
境内の真ん中に古川が流れ水辺公園、そして鎮守の森として子供らの格好の遊び場となっている。また社殿裏には終戦間際に撃墜されたB29が当たり傷ついた神明橋(旧)欄干の一部が保存されている。 (戦争の痕跡頁参照)

守山スポーツセンター(龍泉寺二地内)ゆとりーとライン小幡緑地駅横、小幡緑地公園に隣接し2010(平成22)年12月1日オープン。室内25m温水プール、トレーニング室、軽運動室、フットサルコート、2階には観客席のある第一競技場と第二競技場、3階には一周200mの室内ランニングコースがある。
この施設は国の「民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律(PFI法)」が1999(平成11)年7月に制定されたことにより同方式にて設計・建設され、指定管理者、守山エス・アンド・エス株式会社によって運営されている。
※PFI(民間資本主導:Private Finance Initiative:プライベート・ファイナンス・イニシアティブ):公共施設等の建設、維持管理、運営を民間の資金等を活用して行う方式で、自治体はその事業者に事業費を支払い、一般利用者は有料にて利用する方式。

野田農場(中志段味)都市近郊専業農家が衰退していく中、米・野菜など多くの作物を作り、直売所を設け市民参加型の田植え・芋掘り、季節の行事を行い情報を外に向け発信、時にはボランティアの掃除等に支えられながら名古屋市認定農業者・愛知県知事認定エコファーマーとして農業を生業として現在に至っている。又近年区画整理事業による移転問題も組合・名古屋市との三者協議により、市は希少種の動植物が生息する近隣の森約1ヘクタールを保全、農地10,500m2のうち約8000m2の農地の残す事などで和解に至り、次の世代に向けての農業を続けられている。

庄内川志段味ビオトープ(上志段味西浦・安川原) 2000(平成12)年頃、国土交通省庄内川河川事務所及び土岐川・庄内川流域ネットワークの皆さんにより、大留橋(人道橋)南東、庄内川、野添川合流点、古くは洪水調整池(地)とされた霞提の内側に広がる竹林を開削して造られた。
脇を流れる二つの河川とは接しておらず水源は雨水などに頼り写真のように渇水期にはかなり水質が悪化しますが、自然に近い状態のビオトープとなっている。又開設以来ボランティアの手により「志段味ビオトープで遊ぼう」と言うイベントが開かれ、近年では自然回帰の意識の高まりと共に参加者も増えていると言う。
(写真右奧は東谷山)
ビオトープ(独:Biotop/英:biotope(バイオトープ))、bio(生物)とtop(場所)又はbio(命)とtopos(場所)の造語で、1970年代より自然との共生が見直され世界的に提唱されるようになった。日本語では生物空間、生物生息空間等と言う。

霞提(上志段味地内)
堤防に下流部に向け切れ目を造り洪水時一時的にその切れ目より背後に造られた遊水池(地)に濁流を流入させ洪水を調整、そして水位が下がれば自然に下流部に設けられた堤防切れ目より本流に排水させる。従って遊水池(地)とされる霞堤外側の土地は低湿地で人が住むには不向きで荒れ地の場合が多い。上志段味の場合ここの竹林を開削しビオトープが造られている。庄内川には志段味地区、吉根地区に霞堤が造られていたが現存は上志段味地区のみとなっている。※戦国時代に武田信玄によって考案されたと言われている。また地区により「よげ」などとも呼ばれる。



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