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●元守山村・長母寺(現名古屋市東区矢田3)
  ※古くは守山村にあったが洪水のため矢田村(現名古屋市守山区から東区)の寺と
   なってしまった。


上左図は明治44(1911)年発行名古屋全図の部分。
中央
長母寺、その北は宝勝寺・守山城跡、中央Cは現矢田川、D・D'は明和4(1767)年7月10〜13日と続いた大洪水により矢田川堤防が決壊する以前の旧矢田川堤跡。は明治38(1905)年4月に開業した瀬戸電気鉄道(瀬戸電)の線路、軌道が旧矢田川堤防上に敷設されている事がわかる。そして横のは矢田川氾濫により流失した大門郷、彼らはその後守山城址下北西の守山村に移り大門郷(現鳥羽見地区)を作り移り住んだ。
洪水後に記された長母寺古図に「古ハ垣外ニ芦田アリ芦田ノ外ニ小堤アリ明和四亥年ノ洪水ニ砂河原ト成リ・・・」とあり、本流が北に変わった事が記されている。
流路が変わり守山村から切り離された長母寺はその後も長く守山村の飛び地となっていたが、明治9(1876)年矢田村に、そして現東区に編入された。
長母寺南の旧河床の荒地は明治に至るまで痕跡を留めており、矢田川は当時すでに上流部瀬戸一帯での焼き物産業により山が荒れ排出土砂により本流は河床が高くなり流れにくくなっていた可能性もあり、寺域北方の鞍部に溢れた水が一気に流れ込み流路(山抜け)が変わった可能性が高い。

写真上左西から見ると画面右が長母寺、左が守山城跡・宝勝寺の森。
中央に二つの森を割くように矢田川が流れているのが解る。
写真上右旧矢田川南の外提付近。今も変わらず瀬戸電が走っているが当時の地形は全く留めていない。(矢田駅より南、矢田踏切方面を見る。)
写真下左
長母寺南、今でも崖状になっている。
写真上右
新橋架設のため取り外された明治17(1884)年記銘の矢田川橋親柱。(長母寺北、矢田川堤防南)

参考文献 伊藤秋男著 地籍図で探る古墳の姿(尾張編) 人間社


霊鷲山長母寺
(りょうじゅさん ちょうぼじ)

治承3(1179)年、山田次郎重忠がその母の菩提を弔うため観勝法師を迎え天台宗桃尾寺として創建。その後焼失したが、弘長2(1262)年(※)山田道園坊夫妻が母親のため鎌倉梶原影時の末裔当時37歳(嘉禄2(1226)年12月28日生)の無住国師を迎え長母寺と号し同地木賀(が)崎に再建、臨済宗に改められた。
※一説には弘長3(1263)とも言い、山田重忠は山田庄内に父・母・兄をそれぞれ祀るため長父寺・長母寺・長兄寺を建立したと言う。長父寺は明応8(1499)年に廃されたが、長兄寺は兄(けい)を慶とし小幡地内に長慶寺としてある。


無住は高僧の誉れ高く一時は末寺93ヶ寺を数える程の大寺となり同寺で弘安6(1283)年、仏教説話集「沙石集(しゃせきしゅう)」全十巻(県文化財)を著したのを初め多くの書物を著し、中でも法華教を基に狂言風に著した「正應年中萬歳楽」は小者徳若に授け祝い事の時家々を回り謡うことにより教えを広めようとし後これが尾張万歳の発祥となった。無住はまた熱田の神への信奉も篤く朔日には必ず参禅しこれが今門前にある熱田社。
正和元(1312)年10月10日、同寺で50年を過ごした後87歳で入寂した。
※無住が兼帯した桑名蓮華寺との説もある。

中世に入り貴族階級が崩壊し後ろ盾を失った寺社は衰退、長母寺も天正5(1577)年織田信長から340石、北条・足利家そして山田・二宮氏等合わせて1200石を有したが衰退の一途をたどり、秀吉の文禄の検地(1582〜1591)により寺領を没収され、18世嶺岳和尚は遷化させられ相続も無く無住像を残し全てを失い東福寺派名古屋総見寺末寺として細々と存在する状態になった。
その後政秀寺開山澤彦和尚が預かり、慶安3(1650)年に入山した昭山和尚は寛文8(1668)年まで18年間住職に留まりその間諸堂の普請、末寺の復帰、総見寺との関連修復にと尽力、散逸していた諸物の収集に務め、また多くの人々の寄進も増え、天和2(1682)年雪渓和尚の時尾張2代藩光友公の命により再興された。

戦前には開山堂北に足洗池があり、この水で足を洗うと冬場ひび・しもやけにならないと言われ夏の土用の入りに行われる祭礼に際して、瀬戸電気鉄道(現名古屋鉄道瀬戸線)の大正13(1924)年の案内には「洗足池 開山堂の裏に小池あり、毎年土用の入りに此処にて足を洗えば、霜焼け、ひび、あかぎれ等を患ふることなしとて来る詣る者多く、而して御通夜と唱へ前夜より御詠歌大会を催し種々の余興等あり」と記されており、臨時電車が走り最寄りの矢田駅は終日賑わい、また丘の上のため水不足の折りには地元の人々が矢田川から水を運び込み、駅から門前までは幟旗がはためき大変な人出だったと言う。しかし今はその面影を見ることは出来ない。

写真上右手前が開山堂、奧に見えるのが国登録有形文化財の本堂。明治24(1891)年この地方を襲った濃尾地震で倒壊、明治27(1894)年に再建された。寺宝として国重要文化財木造無住和尚坐像があり、開山堂前の石製花入れは明治中頃から昭和の始めにかけ全国に数百基の石像物を寄進した名古屋塩町の篤志家伊藤萬蔵氏寄贈の物。
写真上中国登録有形文化財の山門。江戸時代中頃に建てられた瓦葺、間口4.8m、奥行き1.7m、薬医門形式。
写真上左国登録有形文化財の庫裡。文政11(1828)年建。本堂茶室と繋がり木造平屋建、瓦葺、建築面積361㎡。
写真下右山門へ続く石段の下東側「無住国師入定地」碑
写真下中山門手前の熱田社。山田次郎重忠が熱田明神から「佛法興隆の霊地である」とお告げを受け創建したと伝えられ、ここに祀られるようになった。そして熱田神宮から五種の霊宝が授けられたが現在は八重ツツジのみが伝わっている。
写真下右本堂前石垣の中には椿、山茶花、榊、ねずみもち等あり、桧の芽が宿る寄生木もあり無住国師入定伝説が伝わっている。また昔同寺の八重つつじを持ち帰り庭に植えた者が病気になってしまったと言う「因果物語」が伝わり、この石碑は「この木め おりとるべからず 願主 成瀬来次郎」とある。
※同氏は元岡崎の石工、日本各地に石造物を寄進続けた
篤志家伊藤萬蔵氏のお抱え石工として後名古屋に移り多くの伊藤萬蔵氏の石造物を手掛けた。

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