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松洞山大行院龍泉寺
寺伝によれば延暦(782〜806)年間、伝教大師最澄の開基と言われ、また空海(弘法大師)が熱田神宮参篭中、宝剣八振りのうち三振りを同寺に奉納した事から熱田神宮(熱田区)の奥の院と言われこの地方屈指の古刹。
1584年(天正12)、「小牧・長久手の戦」のおり秀吉が入城、家康が布陣した小幡城と対峙したが退却する秀吉軍に火を放たれ焼失、1598年(慶長3)秀純大和尚により再建された。
また名古屋城から見て鬼門の方角にあたる寺院を尾張四観音と定め、同寺はその一つ東北東の恵方を司り春の節分会には多くの人出で賑わう。
現在重要文化財の仁王門始め多くの文化財を有し、奧にある龍泉寺城(模擬城)は資料館となっており館内には多数の円空仏が展示してある。そして1906年(明治39)2月、放火により多宝塔、仁王門、鐘楼を除く全てが焼失。その焼け跡から大判切2枚、小判98枚が入った壺が発掘され、それを再建資金にしたと言う。その埋蔵金の入っていた壺なども展示されている。
(開館日−日曜日等不定期)


写真上左 山門と左後ろの多宝塔。
写真上右 仁王門と仁王像。1607年(慶長12)建立・重要文化財。
写真下左 
2015年改装成った本堂。
写真下中 
尾張四観音の一つとして節分の日には多いに賑わう。
写真下右 焼け跡より発掘された埋蔵金が入っていた壺。
写真左 1906年(明治39)焼失後、再建途中1910年(明治43)頃の写真。
まだこの頃の多宝塔は『尾張名所図会』と同じ位置にあり(仁王門の東)、仁王門は瓦葺きである。
この多宝塔がいつ頃現在地(仁王門の西)に再建されたか定かではないが、1958年(昭和33)頃の写真には仁王門の東にあり、最終的には伊勢湾台風(1959年<昭和34>)で被災した後であろう。(目で見る名古屋の100年誌より)

写真右 仁王門の西側に再建された現多宝塔。
『名陽見聞図会』天保五年正月十八日「龍泉寺恵方参り」
「『夫木集』ニ「雲はぬれ 竜のお山」と仲正がよみタルハ、此龍泉寺をさして云うとぞ。・・(中略)・・龍女が故事によれバなるべし。今年ハ府下より恵方に当りて、・・後略)・・」と恵方で賑わう境内を描いている。
※夫木集:『夫木和歌抄』の略。鎌倉時代後期の私撰和歌集
他に、天保四年十二月に「節分日龍泉寺参俄雨混雑のてい」には突然の雨に逃げ惑う人々が描かれ、天保七年十二月には「当年、節分大三十日(おおミそか)にして、竜泉寺参り少なし。」とあり当時より城下の人々が節分には多くの人々が参詣に訪れていた事がうかがえる。(竜泉寺→龍泉寺)


『名陽見聞図会』文/絵:小田切春江
 
1832年(天保3)〜1839年(天保10)にかけて、歌(花)月庵喜笑と名乗った自身による絵入日記。


●龍泉寺の開運宝船
同寺は前出宝勝寺の頁でのとおり、1929年(昭和4)当時の「瀬戸電気鉄道(株)、現名古屋鉄道瀬戸線」が沿線集客のため守山を中心に七福神を配した
「蓬莱七福神」別格開運宝船の寺であります。
またそれとは別に守山と瀬戸の間に組織された
「陶寶(宝)七福神」開運宝船の寺でもあり、吉根・志段味地区の人々には「陶寶(宝)七福神」は一時信仰されたが、現在では現在両七福神は共に活動休止状態にある
(写真は特別展示された陶寶(宝)七福神の陶製開運宝船)

●陶寶(宝)七福神
松洞山大行院龍泉寺 開運宝船  区内竜泉寺(蓬莱七福神を兼ねる)
仏日山法輪寺    福禄寿尊天 区内大森(蓬莱七福神を兼ねる)
興福山観音寺     布袋尊天  区内吉根
(以上守山区)(写真は吉根観音寺の布袋尊天)

◇隣接する愛知県瀬戸市の各寺
医王山慶昌院 大黒尊天   瀬戸市城屋敷町
大昌山宝泉寺 恵比寿尊天  瀬戸市寺本町
大龍山雲興寺 毘沙門尊天  瀬戸市白坂町
洞谷山浄源寺 寿老尊天   瀬戸市岩屋町
小金山感應寺 弁財尊天   瀬戸市水北町


●円空仏
龍泉寺には荒子観音寺(浄海山圓龍院観音寺・愛知県名古屋市中川区)の1020体、津島地蔵堂(愛知県津島市天王通り)の1008体に次いで575体(現在は300弱とか)と全国で3番目に多い円空仏を所蔵している。
1676年(延宝4)7月、当地方一帯を襲った風水害で被害に遭われた方々の供養に彫られた物ではないかと言われ、馬頭観音(112cm)の背には「日本修行乞食沙門 龍泉寺大慈大悲観音 延宝四丙辰立春大吉祥」と書かれており他に熱田大明神と天照皇太神(各102cm)、菩薩立像と木っ端に目鼻を付けた全長5cmほどの円空独特の木っ端仏群がある。
円空はこの後荒子観音へ行き最大の円空仏群を彫り上げた。


写真龍泉寺城(模擬城・資料館)内に展示されている円空仏。
   熱田大明神(左)、馬頭観音像(中)、天照皇太神(右)。
   下段は円空仏と文字状に並べられた木っ端仏。


御花弘法八十八ヶ所霊場  
竜泉寺一帯に広がる、一山完結型ミニ四国「御花弘法八十八ヶ所」は1916年(大正5)、木村義豊氏が発願、同氏の死後はその娘てつ子(二世義妙)が志を次ぎ翌年一応の完成を見る。
現在の「御花弘法八十八ヶ所」は戦後荒廃していた霊場を区内小幡、石黒籐三郎氏の尽力により各所に散逸していた札所を再構築した物で、龍泉寺表参道弘法堂裏、御嶽神社周辺、龍泉寺墓地南、駐車場西の四ヶ所に集められているが遺失した物も少なくない。
この御花弘法は江戸時代初期には既に行われており、弘法大師が熱田の地で修行中龍泉寺の多羅々ケ池の龍神の話しに遡り、4月5日より月に3度ずつ7月5日に至る夏の間十度参詣し観音へ十度聖水を捧げる事に起因し、これを十度花会の始めとするとい言う。
また霊場開設に尽力した伊藤萬蔵氏は88番札所、発願者木村義豊碑の玉垣に石柱を寄進。10番札所には長男萬壽郎氏も札所を寄進している。


御花弘法一番札所(龍泉寺御嶽神社下)

発願者 木村義豊碑(龍泉寺墓地南)


龍泉寺墓地南 札所群

龍泉寺参道下駐車場西札所群

御花弘法大師像
小幡緑地公園(本園)に隣接する緑ケ丘カンツリークラブ西に座する高さ10m余のコンクリート製弘法大師座像。
一帯の広場、小径には仏足・小仏像等が祀られ花など絶えることなく信仰の篤さが伺える仏教的空間を醸し出しているが現在この地は龍泉寺の管理を離れ一部壊れも目立ち侘びしさもある。
1929年(昭和4)、当時の「瀬戸電気鉄道(株)」が小幡駅より龍泉寺への支線龍泉寺鉄道を計画。龍泉寺・白沢地区に遊園地を造り大いに売り出し、その集客の目玉として守山区を中心とし一部隣接の愛知県春日井市、愛知県尾張旭市にわたる
「蓬莱七福神」及び「尾張三大弘法」を組織した。
同弘法は十度花会(じゅうどかかい)言われる参詣行事など行われ当時は地元の遠足コースになるなど多いに賑わっていたと言う。しかし鉄道敷設には至らずその後、瀬戸電気鉄道は1939年(昭和14)名古屋鉄道と合併、瀬戸線となりこれらの霊場巡りは下火となっていった。現在はほぼその活動を停止している。


●尾張三大弘法
御花弘法大師像は上記「尾張三大弘法」第一番御花弘法大師として1932年(昭和7)開眼供養され、立像の多い大師像の座像は珍しい。作者は花井探嶺(たんれい・三重県菰野町出身・セメント仏師)
第二番開運大師は当初東寺別院(守山区北山)であったが廃寺となり、満安山良福寺(愛知県尾張旭市印場)に変更された。建立:1931年(昭和6)。台座を含め10m余、三大弘法では唯一の石造。
第三番厄除大師は安生山退養寺(愛知県尾張旭市新居町)で、共に台座を含め高さ10m余の弘法像がある。
※退養寺の弘法像はこの地方に多くのコンクリート像を創った浅野祥雲氏40歳の時の作品。
建立:1931年(昭和6)。
尾張三大弘法
一番:御花弘法大師像
今も変わらず供え物が絶えない弘法様裏手の通称弘法道
沢山の野仏が祀られた小径が続く
尾張三大弘法
二番:良福寺大師像(尾張旭市)
尾張三大弘法
三番:退養寺大師像(尾張旭市)





●昔話 たららが池の竜神 (龍泉寺) 
(名古屋市経済局観光貿易課編集「名古屋の伝説」より)

昔々のことです。そのころ、たららが池は大きな池でした。深い池でした。村人たちはたららが池には竜神さんがいらっしゃると信じていました。
ある時、一人のお婆さんがたららが池のふちを通りかかりました。そのお婆さんは大へん信心深い人でした。なにげなくたららが池の水面を見ると、岸近くに古い木ぎれが浮かんでいるのが見えました。もしかしたら仏さまではないかなと、お婆さんはその木ぎれを拾い上げてみました。まっ黒くなっていますが、たしかに仏さまに違いありません。観音さまです。仏さまのお顔の上に馬の顔が刻んであります。馬頭観世音さまです。お婆さんはびっくりしました。これはありがたいことだというので、近くのお百姓さんとともに、池の上の丘の上に小さなお堂を造って、そこにおまつりしました。
それからお婆さんの観音さま参りが始まりました。雨の日も風の日もかかさずお参りしました。近くの村のお百姓さんもお参りしました。そのうちに、誰言うともなく、こんな小さなお堂ではお気の毒だ。みんなでお金を出してもっとりっぱなお堂を建ててさし上げようではないかということになって、大工さんに頼んでお堂を建てることになりました。建てまえがすんで、いよいよ屋根をふくことになりました。屋根ふきさんが一日の仕事をすませました。まだ三分の一もすんでいません。翌日の朝来て見ると不思議なことに屋根が半分以上もふいてあるのです。
「誰だい? ゆうべのうちに屋根をふいたのは?」村の人に尋ねてみてもだれも知りませんでした。その日が終わってもまだ全部ふけませんでした。その翌日、夜もまだ明け切らぬころ、村の神主さんがこの丘にのぼって、何気なく建築中の観音堂を見て、思わず「アッ!」と声をあげました。驚くのもそのはず、観音堂の屋根に一人の美しい少女がいて、しきりに屋根をふいているではありませんか。少女は神主さんの声に、ふり返って神主さんの姿を見ました。と、たちまち少女の姿は屋根から消え失せてしまいました。
しばらくすると、丘の下のたららが池にポチャーンと音がしました。神主さんが丘の上から見下すと、池のまん中に大きな波紋ができて、竜のしっぽがすーっと沈んでいくのが見えました。
観音堂の屋根をふいていたのは、池の竜神さんだったのです。


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