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[所在地]高知県高知市浦戸 【築城年】天正19年(1591) 【築城主】長宗我部元親 [立地]平山城
[史跡区分]高知市史跡 [交通]バス「南はりまや橋」から「桂浜行」約35分。龍馬記念館前バス停下車徒歩すぐ
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浦戸城跡は、桂浜を見下ろす丘陵上にある。前方は龍王岬
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▲桂浜から浦戸城跡(樹木に覆われた一帯)を望む
桂浜水族館と、その上方は、浦戸城「詰ノ段」に建つ国民宿舎「桂浜荘」。
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▲龍王岬から眺めた桂浜と龍頭岬(右端)
桂浜背後の右側樹木部分に坂本龍馬銅像が建つ。
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「浦戸古城之図(現地説明板に一部追記)」〜太平洋(南側・写真下側)に突き出した半島の山頂に五十三間四方の本城(●部分)を置き、北東隅に五間四方の天守台(■部分)があった。その東側に海に突き出た灯明台、西側には二ノ丸・三ノ丸があり、さらにその北側(写真上側)が御殿となっている。
浦戸城跡
浦戸城は、戦国時代の土佐を代表する武将・長宗我部元親が、土佐一国を領有する拠点として整備した城である。この地は浦戸湾の入口に位置し、交通の要衝として重要な地で南北朝時代からこの地をめぐる攻防が繰り返されてきた。
戦国時代、長岡郡本山を本拠地とする本山氏が高知平野に進出し、朝倉城(高知市朝倉所在)を拠点としてその勢力を拡張した際、ここに城を築いたのが中世の山城として整備されたはじめである。
1560(永禄3)年、本山氏を破った長宗我部氏はこの城を奪った。1585(天正13)年に土佐一国の領有を認められて後、元親は一時大高坂山(現・高知城跡のある地)に城を築いたものの治水に失敗し、1591(天正19)年頃再びこの地に移転以後、10年間にわたって浦戸城は長宗我部氏の本城となった。
長宗我部元親は慶長4年(1599)5月に伏見で没した。跡を継いだのは元親の四男・盛親、関ヶ原の戦いで西軍となり、敗れたため土佐24万石は徳川家康に領地没収となり盛親は改易となった。その後には山内一豊が封じられた。
現存する遺構は、天守台跡、詰ノ段、ここから西へ三ノ段、三ノ下段、堀切及びニノ段などであるが、中世の山城的構造をもとに、詰ノ段を取り巻く土塁配置や天守を備えた点などの近世城郭としての特徴を併せ持つ、土佐の城郭史上貴重な遺構といえる。
廃城は、長宗我部氏に替わって、1601(慶長6)年山内一豊が、浦戸城に入城し、2年後の1603(慶長8)年には近世城郭である高知城に移った。そのため浦戸城は廃城となった。
(現地説明板に一部加筆)
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浦戸城現況
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浦戸城一帯は、観光地「桂浜」となっているため城跡の多くは破壊されているが、詰ノ段(本城)に天守台跡、井戸跡などが部分的に残る。
現在、坂本龍馬記念館、国民宿舎「桂浜荘」が建っている場所は浦戸城の「詰ノ段」にあたる。遺構はこの場所以外には殆どみられない。
(浦戸城跡現状図は現地説明板より。一部追記し掲載)
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浦戸城以前の本城岡豊(おこう)城(南国市岡豊町・国史跡)は、「詰ノ段」を城の中心とする中世山城であったが、
浦戸城の場合は、「詰ノ段」の北東隅に中世山城にはみられない「天守」跡があり、その特異性が目立つ。
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▲浦戸城「詰ノ段」に建つ桂浜荘(左)と龍馬記念館(右の赤い建物)
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▲浦戸城石碑
左手に天守跡への登り口がある。
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▲石垣展示
発掘された石垣を積み直した石垣。天守から延びた石塁の一部を移築したもので、16世紀後半によくみられる自然石を積みあげた野面(のづら)積みで築いている。
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▲井戸跡
桂浜荘の南側に残る。 |
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▲龍馬記念館側からみた天守台跡
樹木の中に天守跡があり「詰ノ段」より高く、「吾川郡浦戸古城蹟図」などをみると「五間四方」と記されている。赤い車(左端)の後に天守跡への登り口がある。
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▲天守跡への登り口
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▲浦戸城天守跡(高知市史跡)
浦戸城「詰ノ段」北東隅に位置する。中世の山城としては珍しい天守跡である。天守跡は詰ノ段よりも7m高く、いびつな台形である。上部は平坦で南北15m、東西11mで城八幡(手前) 大山祗(奥)の二つの小さな祠がある。
天守跡の斜面には石垣の名残と思われる石が露出している。なお、北側斜面は1958(昭和33)年の展望台造成工事でその一部が削り取られている。
松野尾章行著の『皆山集』に掲げる「浦戸城古城略図」には「五間四方」の天守跡が描かれているが、その広さや造築された時代から長宗我部元親の築いた天守は三層であったと思われる。なお、元親が築城した浦戸城以前の城郭である岡豊城には、まだ天守は出現していない。
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【岡豊から浦戸へ】
<長宗我部元親>
豊臣家の一大名になった長宗我部元親は、大規模な城と城下町を建設するため大高坂山(高知市)への移転を決意しました。移転は段階的におこなわれ、天正16年(1588)頃にはある程度の完成をみたと考えられています。
ところが、わずか数年で浦戸に再移転することになりました。水害に悩まされて築城を放棄したとみる説もありますが、豊臣政権からの命令の多くが、船や水主(船乗り)を必要としたため、一時的に海に近い浦戸が選ばれたようです。
元親は、この浦戸城を中心に、戦国以来の古い体制を一新し、長宗我部本家のみに権力を集中する、新しい領内支配のしくみを築こうとしました。
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(高知県立歴史民俗資料館にて撮影。一部加筆し掲載)
浦戸城は戦国時代、本山氏の支城であったが、1560(永禄3)年5月に
長宗我部国親の攻撃にさらされて落ち、のちに元親(国親の子)によって改修された。
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土佐闘犬センターから坂本龍馬銅像に至る途中に砲台跡が残る
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この場所には、万治年間(1658〜1660)に建設された浦戸の灯明台があって、夜間舟の出入りする時の目印になっていた。
寛永15年(1638)に外国船来航を監視するに土佐藩内4ヵ所に遠見番所がおかれ、正徳6年(1716)の記録によると浦戸にもおかれていた。
やがて外国船が日本近海に出没するようになり、文化5年(1808)に大筒を配備し、文久3年(1863)には本格的な砲台場を構築した。この場所は弾薬を貯蔵していたといわれている。 |
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▲砲台跡
ここから登りきった所に龍馬像が立つ。 | 
▲砲台跡
降って行くと、土佐闘犬センター、観光案内所、桂浜バス停に至る。
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【上】龍王岬の岩頭には、龍王宮があり、桂浜を象徴する景観
【左】太平洋を見下ろす坂本龍馬銅像
訪問日/2014年2月
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