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平安夢幻紀行
〜花の巻〜

平安京は四神相応の都。魑魅魍魎がはびこる魔界都市。
王様のみやこを紹介。


西寺跡  京都市南区
平安京の鬼門である羅城門を挟んで東西に建てられた西側のお寺で、西寺とも西大寺とも呼ばれていました。東寺が真言密教の道場として発展していったのに対してこちらは鎮護国家の寺としての歴史を歩んでいましたが、徐々に勢力を失い天福元年に五重塔が焼失。その後再建される事はありませんでしが。唐橋西寺公園の真ん中に丘があってそこに碑が建っています。

幸神社  京都市上京区
「さいのかみのやしろ」と読み、主祭神は猿田彦神。御所の鬼門にあたり、ちょうど京都御苑の東北隅、御所の猿ヶ辻の延長線に鎮座しています。道祖神を祀ったものがお社の原型のようですね。本殿の東側には烏帽子を被って御幣を手にした日吉山王神社の神使である猿の木像があり、境内の東北隅には猿田彦神石があります。この石は「御石さん(おせきさん)」と呼ばれ、拝むと幸せが訪れますが触ると祟りがあるそうです。門前に「王城鬼門除出雲路幸神社」の碑。・・・まさしく鬼門封じ。古き良き建物に囲まれた閑静な地にあります。

西福寺  京都市東山区
葬送の地・鳥辺野の無常所の入口にあたり、空海が此処に地蔵堂を建て自ら作った土仏地蔵尊を祀った事が始まり。橘嘉智子(檀林皇后)所縁のお寺で、檀林皇后像や『檀林皇后九相図』があります。嘉智子サマが夫君・嵯峨天皇を戒めたのはこの絵図。そしてこれって日本版の「死の舞踏」。

坂上田村麻呂墓  京都市山科区
清水寺の東南といいますか将軍塚の東南といいますか、まあこじつけでいえばそんな鬼門にあたりそうな方位に田村麻呂のお墓はあります。それも「坂上田村麻呂公園」の中なんですよ。地下鉄椥辻駅から徒歩15分位。バスもありますが待つより歩きましょう♪

嵯峨清凉寺(嵯峨釈迦堂)  京都市右京区
嵯峨天皇の皇子・源融の山荘棲霞観(後の棲霞寺)があった場所です。融は『源氏物語』の主人公である光源氏のモデルという説もあり、源氏ファンなら一度は訪れた事があるのでは。境内には明治以前まで御陵とされていた嵯峨天皇・檀林皇后の宝塔の他、源融のお墓もあります。また昭和55年に大坂城三の丸跡地から出土した豊臣秀頼の首も収められ、首塚として境内に安置されています。阪神大震災の3ヶ月後に此処を訪れた時、京都でも特に被害が大きかったお寺の一つとして壊れた仏像が床一面に整然と並べられ、その光景が今でも忘れられません。

嵯峨薬師寺(生の六道)  京都市右京区
嵯峨清凉寺に隣接。小野篁さまは昼間は役人、夜は地獄の冥官と二足の草鞋を履いていた事で知られていますが、此処は冥界の出口といわれ、「生の六道」の名があります。もともとこの場所は葬送の地・念野。この「生の六道」にあった福生寺の跡地には井戸が沢山あったそうなので彼が此処から出てきたのも頷けるというものでしょうか。境内には「生の六道」の碑が。

猿ヶ辻(京都御所内)  京都市上京区
御所の東北の鬼門。御所の築地塀の東北角は塀が内側に折れ曲がっているのですが、此処が猿ヶ辻と呼ばれる場所です。別名「つくばいの辻」。その屋根裏には烏帽子を被り御幣を担いだ猿が一匹。この猿は御所の鬼門を護る為に日吉山王神社から使わされたのですが、夜な夜な逃げ出しては通行人にいたずらをしたので金網を張って閉じ込めています。

猿田彦神社  京都市上京区
地下鉄鞍馬口駅から上御霊神社への道に面したところに鎮座。桓武天皇は猿田彦神の託宣によって平安遷都を決意したのだとか。延暦12年の造営で、始めは広大な境内を持ったお社でしたが次第に縮小。寛永5年に現在の地に移されました。皇居造営にあたってはこのお社の土をもって地鎮神事を執り行っていたそうです。

下桂御霊神社  京都市西京区
貞観18年4月18日に創建。平安時代三筆つして嵯峨天皇・空海と共に肩を並べた橘逸勢を祀っています。彼は渡唐の経験もありその学識の高さから文人達から「橘秀才」と称されました。承和の変で無実の罪の落とされて失脚し、伊豆に流罪となり、配流途上の遠江国で没したといいます。しかしその怨霊は京の人々を脅かし、八所御霊の一人として数えられている事が多いのです。桂離宮の近くにあり、割と庶民的なお社です。

下御霊神社(御霊社)  京都市中京区
大同2年平城天皇の異母弟伊予親王とその生母藤原吉子は謀反の罪を被せられ、官位剥奪・幽閉の身となりました。母子は食事も与えられないまま日を過ごし、遂に毒を仰いで自殺しました。その後祟りを恐れた平城天皇は彼らの御霊を慰める為に、承和6年にこのお社を建てたのです。上御霊神社の南にあった事から下御霊神社と呼ばれ、この他に崇道天皇(早良親王)・吉備真備・藤原広嗣・橘逸勢・文室宮田麿・火雷天神を加え八所御霊が祀られています。もともと出雲路にありましたが新町出水の西を経て天正18年に此処に移りました。現在の京都御苑の東南角にあたり、幽霊絵馬で知られる行願寺(革堂)の近く。初めて訪れた時はタクシーの運転手さんも場所を知らず、見つけるのに一苦労しました。今では市役所の辺りから寺町を北上してぷらぷらする時に立ち寄ったりします。

将軍塚  京都市東山区
東山三十六峰の一つ華頂山の山頂にあり、青蓮院の飛地境内にあたります。桓武天皇は平安遷都の折、新京の永遠を祈って高さ八尺の土偶に鉄の甲冑を着せ、鉄の弓矢を持たせて王城鎮護の為にと西向きにして埋めるように勅したとか。また京に異変がある時は必ずこの塚が鳴動するようにと「将軍塚」と名付けたという話もあり、平安末期から鎌倉時代にかけて鳴動の記録が残っています。この「将軍」とは坂上田村麻呂をさすともいわれ、古くから田村麻呂の墓とされてきました。伊藤遊氏の『鬼の橋』にもそうした田村麻呂が描かれています。ももかが訪れた時は、夕暮れ時の太陽の光が市内に満ち、その薄く煙ったような展望が素晴らしいものでした。初日の出を此処で拝んだら一年間幸せに過ごせそう♪東山山頂公園も近くにあり、夜景を見る為にやって来る人も多いです。但し坂道がきついので車のご利用をおすすめ致します。でもももかの知り合いは青蓮院の辺りからふらふらと登って辿り着いたらしい(^^;)。

上善寺(深泥池地蔵・鞍馬地蔵)  京都市北区
貞観5年天台密教の道場として千本今出川に創られたのが始まり。文明年間に再興、文禄3年にこの場所に移り、浄土宗に改められました。此処に安置している地蔵尊は小野篁さまが熱病を患い意識を失った時に出会った地蔵菩薩から「全ての人々を救いたいのだが縁のない人は救う事が出来ない。これは私にとっても残念な事だ。貴方はこの苦しい地獄の有様と地蔵菩薩の事を人々に知らしめて欲しい」といわれ、彫った六体の地蔵尊のうちの一つ。もともと小幡の里に祀られていたのですが、保元年間に御菩薩池(深泥池)のほとりに移り、その後このお寺に移されました。その為「深泥池地蔵」「鞍馬口地蔵」の呼称も。地下鉄鞍馬口駅から出雲路橋方面に歩き、途中安倍晴明所縁の鎮宅神符本廟を通り過ぎてすぐ。『都花月名所』に「庭中に紫藤玲瓏たり」とあって藤の名所として知られていました。門を抜けて目の前に飛び込んでくる黒松がとても立派なの。

上品蓮台寺  京都市北区
船岡山の西側にあたり、葬送の地・蓮台野の墓守として建てられました。このお寺が面するのは蓮台野に続く千本通ですから、その位置が分かると思います。この辺りには妖怪土蜘蛛が棲んでいてそれを退治したのが源頼光。お寺の墓地には頼光のお墓だという塚がありますが、この塚が土蜘蛛が潜伏していたものだという伝えがあります。因みに土蜘蛛塚は北野天満宮にあります。

城南宮  京都市伏見区
平安遷都の折、桓武天皇が京の南方の守護にと建てたのだとか、この地にあった城南寺の鎮守社だったとかいう説があって創建の由来ははっきりしていません。後に此処は鳥羽離宮の裏鬼門ともなりました。春・秋に催される「曲水の宴」は有名です。桜も綺麗♪そして鳥羽伏見の戦いの舞台の1つでもあります。

白峯神宮  京都市上京区
明治元年に建てられた崇徳天皇・淳仁天皇(淡路廃帝)を祀ったお社。両天皇は政争に敗れ悲運にして配流、かの地で亡くなっています。蹴鞠・和歌の宗家として知られる旧飛鳥井家の邸宅跡地でもある事からか境内末社には蹴鞠の神様をお祀りしています。サッカー選手の参拝もあって、サインが!さすが!

新正極楽寺(真如堂)  京都市左京区
永観2年延暦寺常行堂にあった阿弥陀如来像を神楽岡の東三条院の宮に移して一宇の堂を営んだのが始まり。応仁の乱で荒廃し、その後何度か移転。元禄6年に現在の場所に移りました。此処には安倍晴明が閻魔大王に頂いて蘇生したという秘印と「晴明蘇生の図」、晴明の持念仏と伝えられる不動明王像があります。吉田神社〜宗忠神社と神楽岡散策の折に立ち寄っても良いのでは。桜・紅葉の名所。此処で頂いたお菓子は美味しかったです。また、境内には玉藻前伝説の殺生石の遺構・鎌倉地蔵があります。

神泉苑  京都市中京区
平安京造営時に設けられた禁苑(お庭)で、池の中から常に清泉が湧出する事から名付けられました。延暦10年の桓武天皇行幸以来、歴代の天皇が此処を訪れ、また宗教的な場ともなり貞観5年には崇道天皇ほか非業の死を遂げた6人の霊座を設けて御霊会が行われました。悪疫が流行したその6年後には民衆が祇園の御輿を担いで神泉苑に赴き、疫病退散の神事を行ったといい、これが祇園祭の始まりといわれています。今の神泉苑は中世の荒廃と徳川家康による二条城造営の為にその大半が失われ、慶長12年の再興のものです。因みに「御池(おいけ)」の地名は神泉苑からきています。弘法大師が天竺の竜王を勧請して雨を請うた話は『今昔物語集』にも詳しいですよね。此処では日本で唯一の「恵方社」があって新年になるとその年の恵方(良い方角)に社殿の向きをかえます。

朱雀門址  京都市中京区
大内裏南面の二階建ての正門。宮城十二門には氏の名を付ける慣わしがありましたが朱雀門だけは例外でした。でも弘仁9年以前は「大伴門」と呼ばれていたようです。内裏の炎上と共に再建を繰り返してきましたが建保5年暴風雨により転倒。その後再建はされませんでした。小野篁さまと藤原高藤が百鬼夜行にあったのが此処なら源博雅が鬼から「葉二」という笛を貰ったのも此処ですね♪現在は小さな碑が建っています。

崇道神社  京都市左京区
平安時代初期に皇位をめぐって非業の死を遂げた早良親王を祀っています。早良親王は桓武天皇の同母弟で後に「崇道天皇」の名を贈られました。古くは「出雲高野神社」といい、上高野の産土神として存在していたようです。名が改まったのは御霊会が始まった貞観5年以降。京の東北鬼門にあたり、裏山には小野妹子の子・毛人のお墓もあります。お社の名は「崇道」ですが額は「崇導」。ももかは後者を好んで使っています。早良親王のみを祀った神社は珍しいとの事。鳥居を抜けて鬱蒼とした参道を歩いていくと社殿が見えてきます。雨の日に行くのはちょっと怖いです。

晴円寺跡  京都市東山区
晴円寺は寛文年間に新道を造成する為に取り壊されたのですが、その跡に晴明社という祠が建てられました。此処も廃仏毀釈によって明治4年に取り壊されてしまいます。この時、本尊として祀っていた阿弥陀如来像と安倍晴明像は長仙院に譲られ、現在に至っています。

晴明神社  京都市上京区
今ではすっかりメジャーと化した晴明神社。堀川今出川から下っていくと案内標識が出てるんだもん、昔なら考えられないです。境内には晴明桔梗紋と呼ばれる五芒星が至るところに乱舞♪これは陰陽道の祝祷呪符の一つで万物の除災清浄を著しているのです。陰陽博士安倍晴明は平安京の鬼門にあたる東北角、つまりこの地に邸を構え、歿後に神として祀られたのだといわれています。彼が式神を隠していたという戻橋も近くにあり、近年の改修工事で不要になった欄干が新しいモニュメントとして境内に置かれています。「清明」に晴明饅頭という五芒星が焼き付けられた茶饅頭が頂けるのですが、これがとても微笑ましいんですよね。実は年々グッズが増えていくのに閉口しています。この前訪れたらマウスパッドや紙袋まで売っていました。・・癒されたい人が多いんですね。ももかの希望としては星と勾玉を組み合わせたお洒落なストラップを作って欲しいなあ。(おい)

赤山禅院(皇城表鬼門)  京都市左京区
御所の表鬼門を守護するお寺で赤山明神(泰山府君)を祀っています。比叡山延暦寺の末社。泰山府君は陰陽道の祖神で寿命や福縁、魔除け、栄達など万物の運命を司る神様。また仏教の六道思想とも結びついて閻魔大王の書記とも地獄の一王とも。屋根には延暦寺の地主神・日吉神社の使いの御幣と鈴を持った猿がちょこんといて、御所の「猿ヶ辻」の猿と向かい合っています。猿は「災いを去る」にかけて勧請されたものだといわれています。

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