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平安夢幻紀行
〜天の巻〜

平安京は四神相応の都。魑魅魍魎がはびこる魔界都市。
王様のみやこを紹介。



橋姫神社  宇治市宇治
大化2年宇治橋架橋の際に僧道登が橋の守護神として瀬織津姫を勧請し三の間に祀ったのが始まりとされています。但し宇治橋の架橋時期については様々な説があるのでこの年と断言する事は出来ません。明治3年洪水により橋が流失した為、現在の地に移転。現在の橋には名残でもあるかのように三の間が造られています。平安時代の事、夫が浮気している事を知った女がそれを怨んで貴船神社で丑の刻参りを行いました。ある日、女は貴船明神より宇治川に浸かれば生きながら鬼と化す事が出来るという託宣を得、遂に鬼となります。鬼女は夫を殺そうとするのですが安倍晴明によって追い払われたのでした。このお話は宇治橋姫伝説や謡曲『金輪』などでも知られています。橋姫神社は悪縁を断つ霊験あらたかな神様として信仰を集めています。因みに宇治で縁結びの神といえば県神社という事になりますね。

比叡山延暦寺  京都市左京区/大津市坂本本町
平安京北東の鬼門を守る鎮護国家の道場。天台宗総本山で伝教大師最澄が延暦7年に薬師堂を建立し、一体の薬師如来っを安置したのに始まります。平安京東北の鬼門。ももかは地元の史談会の旅行に加えて頂いた時此処を訪れたのですが、見るもの聞くもの皆珍しく、また慌しく拝見した記憶しかないんですよ。また行きたいなあ。

平野神社 京都市北区
延暦13年平安遷都の際、桓武天皇の命により大和国から今木神・久度神・古開神・比賣神の四柱を勧請したのが始まり。比賣神とは桓武天皇の生母・高野新笠をさしています。今木神は「新しく来た=帰化人」の意味で高野新笠の遠祖百済国王聖明王といわれています。桜の名所として有名で夜桜に至っては「平野の夜桜」と称される程。北野天満宮からもすぐ。

藤森神社 京都市伏見区
もと紀伊郡深草地域の産土神ですが創建の由来は分かっていません。平安遷都よりも古いお社である事は確かで「藤森神社縁起」には神護景雲年間中とあります。本殿にはスサノオ以下の七神、東殿には天武天皇・舎人親王、西殿には早良親王、伊予親王、井上内親王が祀られています。一説に依ると奈良時代に蒙古が襲来するという噂があって此処で早良親王が戦勝を祈って出陣したのだとか。これはずっと後に出来たお話だといわれていますが、あるんですよ〜、境内には蒙古塚が!でも早良親王って武将のイメージはないんですけど。早良親王は始め御霊神として塚本社(東山区)に祀られ、それが小天皇跡に移され、後にこの藤森神社本殿に移されたのだといいます。さて藤森神社では毎年5月5日に「藤森祭(深草祭)」が開催されお御輿や武者行列、駈馬などが執り行われます。その武者行列の「朝渡」は早良親王が立太子した頃、伊治大領皆麿が陸奥で不穏な動きを見せた為に、親王は征討大将軍として軍を集めこのお社で戦勝を祈願。出陣しようとしたところこれを恐れて乱が平定したというお話の行装です。また「駈馬」は同じく陸奥の反乱に対して征討将軍の勅命を受けここで祈誓出陣された際の擬勢を象したものだとか。一度お祭を見てみたいものです。紫陽花の名所で、また境内には大将軍社もあって京を守護しています。

船岡山 京都市北区
清少納言曰く「岡は船岡」なのだそうで、その名の通り船の形をしている小山。平安京大極殿の真北に位置し、桓武天皇は平安遷都の際に京を守護する霊獣玄武の棲家にここを定めました。山頂には磐座があり、神が祀られていました。ここに登ると「国見」気分になります。恐らく昔は「けぶりたち立つ」の世界だったのでしょうね。中腹には明治になって創建された建勲神社があります。静かな場所で喧騒を忘れてしまいそう。でも夕暮れ時はちょっと怖い。

平安神宮 京都市左京区
平安京最初と最後の天皇(・・・になるのかしら?東京遷都の詔は出てないんですよね)、桓武天皇と孝明天皇が祀られています。明治28年平安遷都1000年を記念して建てられました。社殿は大内裏の正庁である朝堂院の形式を凡そ3分の2の大きさに縮小したもの。昭和51年炎上。現在の建物は昭和53年に再建されたものですが、その大きさと朱塗りの社殿・白砂利のコントラストの美しさに圧倒されてしまいます。神苑の紅枝垂桜はお薦めです。閉門時間になると容赦なく門が閉まってしまうので余裕を持った拝観を心がけたいものです。

魔王石(東福寺・五社成就宮) 京都市東山区
東福寺は東大寺と興福寺の二寺から命名された事は知られているところですが、これを建てた九条道家はある時病に臥していました。そんな時、比良山明神が女房に憑依し病の原因が怨霊にあると伝え、その鎮魂法を教えたといいます。これにより平癒した道家は比良山明神塔とこの石塔を建立したのだそうです。魔王といえば天狗に連なる名。不思議な名前の石ですね。


松尾大社 京都市西京区
大宝元年松尾山大杉谷の磐座の神霊を勧請したのが始まり。秦氏が奉仕していたお社で平安遷都後は賀茂神社と共に王城鎮護の神となり、賀茂の厳神・松尾の猛霊として東西並び称せられてきました。一条天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸も多く中世以後はお酒の神様として信仰されています。阪急嵐山線松尾駅からすぐ。この鳥居は平安神宮に次いで2番目に大きいものだとか。

深泥池 京都市北区
「名を聞けば影だにみえじみどろ池にすむ水鳥のあるぞ怪しき」とあの和泉式部さえもが詠んだこの池。昔から妖しげなスポットとして有名だったのですね。今でもその道の名所として有名です。小さな池でありながら国の天然記念物であり、その歴史は十四万年。

壬生寺 京都市中京区
新撰組ファンの聖地・壬生寺は平安京の裏鬼門を護るお寺。南西の鬼門にあたる壬生の地は、鬼や妖怪が横行する異界だったのです。此処には新撰組局長・芹沢鴨らのお墓や近藤勇の遺髪塔などがあります。注目すべきは社務所で購入できる幕末番付表!これは必見ですよ。ふふ。壬生寺も最近大きく変わりました。まさか壬生塚に行くのに志納が必要だとは思いませんでしたもの。昔のぶらり立ち寄りオッケー♪の頃が懐かしいです。近くの八木邸は新撰組屯所跡ですし光縁寺には山南敬介さんや沖田氏縁者のお墓があります。因みにももかはここは幕末ファンの西の聖地と呼んでいたりします。では東は?というと霊山護国神社かな、と。

八坂神社(祇園社) 京都市東山区
平安京の東方を護る青龍が棲むといわれ、神殿の下には竜宮に繋がる穴があるといわれています。創建時期は不明。祇園牛頭天王神社、祇園社、祇園感神院、祇園寺、祇園大神社などとも呼ばれてきましたが、明治元年神仏分離令に従い今の名称となりました。有名な祇園祭の正式名は祇園御霊会。平安初期に皇位をめぐって非業の死を遂げた人達の御霊は、疫病を撒き散らすと考えられていたのですが、それを鎮める為に営まれたのが御霊会なのです。祇園祭の最初の記録は貞観11年ですがそれから約100年後の天禄元年6月14日の祭礼以来、例年の催しとなりました。ももかは東山散策コースの折には良く立ち寄ります。夜の祇園さんは不気味で美しい♪

矢田寺(矢田地蔵) 京都市中京区
此処は寺町・新京極に近いのです。そして隣は交番。そんな訳でお土産を買いにこの辺りに行った折には是非お立ち寄りを。六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、こちらは「送り鐘」があります。・・・という事は!そう、此処も小野篁さま所縁のお寺。篁さまは地蔵尊をお祀りしているお寺などに関係があったりするのです。平安時代に大和郡山の矢田寺別院として建てられ、初めは下京区矢田町にあったのですが天正年間に移転。地蔵尊は満慶(満米)上人が冥途で出会った地蔵尊を写したものなのだそうです。

山住神社 
京都市左京区
桓武天皇は平安遷都の折、王城鎮護の為に東西南北の山に地切経を埋めたといい、此処は北岩倉にあたるといわれています。境内には社殿はなく磐座そのものがご神体となっています。鳥居を抜けると鬱蒼とした空間。岩に木の根が巻きついて何だか不思議。岩倉方面に来る観光客も立ち寄る人は少ないでしょう。

羅城門遺址 京都市南区
平安京の入口・羅城門。京と異界とを分け、内裏まで開いていたという実在の門。平安京の正門にあたる二階建ての巨大楼閣門で、造営中に視察に来た桓武天皇が「門を一尺切り詰めよ」という注文をしたのに対し威容を損なうとして大工が五寸しか縮ませなかった為、弘仁7年8月16日に大風により倒壊。再建後、天元3年7月9日にやはり暴風雨により倒壊し、その後は礎石を残すのみで再建される事はありませんでした。恐れ多くも藤原道長は法成寺を造る時にこの礎石も使ったとか。一般には「らせいもん」「らいせいもん」と呼ばれ、後に「らいしょうもん」「らしょうもん」と呼ばれていたようです。鬼の棲みかとしても知られ、都良香は漢詩を口ずさんでいたところ鬼の感嘆の声を聞き、源博雅は紛失した御所の琵琶の名器「玄象」を鬼から返して貰ったという話が残っています。説話によっては舞台は羅城門ではなく朱雀門というものもありますけど。芥川龍之介著『羅城門』も『今昔物語集』を元に此処を舞台として書かれていますよね。東寺の近く、唐橋児童公園内に碑が建っています。実際はこの碑の位置よりも南にありました。

羅刹谷 京都市東山区
東福寺と泉涌寺の間の谷。此処に人肉を食べる鬼が出たそうな。比叡山の源心僧都がこの谷を通りかかったところ、美女に化けた鬼と出会ってしまったのです。鬼は源心を谷の奥に誘いましたが、その色香に惑わされなかった源心は無事生還したのだとか。京の妖しげな場所は一人で歩いてはならないという教訓がここに。勿論ももかはこんな場所は通りません。

六道珍皇寺 京都市東山区
白楽天の生まれ変わりと称される程の才能を持ちながらその性格故に嵯峨上皇の逆鱗に触れ、隠岐に流されたという小野篁さま所縁の寺。葬送の地・鳥辺野の入口に位置し元は愛宕寺と称していました。かつてこの地は「髑髏原」(という程人骨が出たのだそうです)と呼ばれていましたが、平家所縁の「六波羅」はこれが訛ったものなのです。冥府への入口という事で「死の六道」といわれます。篁堂(閻魔堂)には閻魔大王坐像と共に小野篁像が。おお・・・(感嘆)。「迎え鐘」「冥途降りの井戸」は古典にも詳しいですね♪近年門が改修し、妙に目立つ風情となりました個人的には古びていた方が良いけど、本来はあのくらいが当たり前だったのよね。

六道の辻 
京都市東山区
六道珍皇寺から西福寺門前の辺りが六道の辻と呼ばれる場所。六波羅蜜寺もすぐ。この辺りは葬送の地・鳥辺野。つまり冥界の入口だったのです。慶長4年の夏に起こった幽霊飴伝説もあり、それにちなんだ飴も売られています。カンロ飴のような味♪お土産にどうぞ♪

吉田神社 
京都市左京区
吉田山西麓に鎮座し、鬼門を守護しています。実は京の中でも最も魔界的な方位だったらしいです。貞観元年藤原山陰が春日大社から四神を勧請し平安京の鎮守神として祀ったのが始まり。注意すべき点は藤原氏の氏神に過ぎない四神を王城鎮護の神として祀ったところですね。この頃から藤原氏はその平安時代の反映の基礎を固めつつあったのです。応仁・文明の乱により衰退したものの祠官吉田兼倶が吉田流神道を興し大元宮を中心とした斎場所を創って復興
兼倶は「神祇官領長上」を名乗って天神地祇八百万神と式内社3112座、その他の神々・・・つまり全国六十余州の神々を勧請したので、「吉田神社に一度参詣すれば日本中の全ての神社に参詣したのと同じご利益がある」とされ信仰を集めました。斎場所大元宮は八角形をした珍しい建物として知られています。

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