このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

夏目漱石 『草枕』
 冒頭 山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。智に棹させば流される。意地を
通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 あらすじ 一人の画家が、春たけなわの南国の峠を越えて、海に近いひなび
た温泉に遊ぶ。いつも探偵につけられているような現実生活にうんざりして、
「非人情」の自由を求めての旅だつた。画家は美しい宿の娘「那美さん」の変幻自在なふるまいに戸惑いながらも、だんだん強く惹かれてゆく。                     志保田の老人、観海寺の和尚、床屋の主人など、一変わった人物たちが登場、俳句や漢詩が頻出し、高度の芸術・文明論が語られ、遠景には戦争や銀行の倒牽、夫婦の離別も描かれる。 
 作者の意図・背景 小説の枠を超えたこの実験作を、漱石は「俳句的小説」と呼び、「美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい」と語った(「余が『草枕』」)。
 漱石は松山中学の勤めを一年で辞め、熊本の旧制室岡に転任した。そこでは旧友の菅虎雄、狩野亨吉などとも同僚になった。妻を迎え、子供が生まれ、俳句にも熱中した。この熊本での四年間は漱石の最も安定した時期だったと言われる。一八九七(明翌年の暮れから正月にかけて、漱石は同僚の山川信次郎と一緒に小天温泉に遊んだ。前の正月に年始の客が大勢やってきて、不慣れな妻がもてなしに窮したことに懲りてのことだった。『草枕』はこの小天温泉行きが素材になつている。
 作品の舞台 小天温泉の宿は政治家前田案山子(あんざんし)の別荘で、娘の卓子(つなこ)が離縁になって帰っていた。若沖(じゃくちゅう)の掛軸、青磁の鉢の羊羹(ようかん)、女が湯に入る場面など、『草枕』に描かれたとおりだったことを、卓子から直接に漱石の妻鏡子が聞いている(『漱石の思ひ出』)。

 昔々のことになったが、小天温泉の那古井館に泊まって「漱石館」などを訪れた後、野出(のいで)峠から熊本に抜けたことがあった。かつて峠の茶屋は通越(とりごえ)と野出にあり、どちらが『草枕』に描かれた峠の茶屋かで論争があった。研究者が軍配を上げたのは野出峠の方で、そこに、「草枕 峠の茶屋跡 1966」と彫られた立派な碑が建ち、環境庁と熊本県の名で『草枕』との関係を示す説明板も立っていた。現在は通越峠に茶屋が復元され、そちらを通る『草枕』ハイキングコースが整備されたという。淑石は熊本で六回も住まいを変えたが、最も長く住んだ五番目の内坪井の家が漱石記念館として保存されている。

 当時五高の生徒だった寺田黄彦が、書生に置いてくれ物置でもいいからと言ったが、その物置を見てついに諦めたという家である。長女の筆子はここで生まれ、その「産湯の井戸」が残っていた。                                                   
熊本市内坪井の漱石旧居 (撮影 2009・5・26) ▲
漱石旧居の庭の「筆子産湯の井戸」と漱石句碑 (撮影 2009・5・26) ▲
 こぼれ話 八雲と漱石 漱石はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の後任として能本の五高に転任し、東大講師になった時もハーンの後任としてであつた。二人ともその前は地方都市の中学敦師だったし、職歴の他にも共通点が多い。ハーンも漱石も最初の子供が熊本で生まれた。ハーンは四十歳過ぎての長男誕生のうれしさのあまり産婆にキスしたという逸話を残し、救石は長女出産の喜びを「安々と海鼠の如き子を産めりlの句に託した。ハーンは両親の離婚で大叔母の手で育てられたし、漱石は生後すぐ里子に出された後に養子となるなど、ともに恵まれない幼少時を送っていて、それが後の人間不信の根にあるとも言われている。二人とも容貌にコンプレックスを持っていた。どちらも背が低かったし、ハーンは事故で左眼を失明、漱石は幼時の疱瘡(ほうそう)の跡が顔に残った。二人とも墓は雑司が谷霊園にある。
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