このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 円覚寺 (えんかくじ)は首里城北面にかつて存在した臨済宗の寺院で、尚真王が父・尚円王の菩提寺として鎌倉の円覚寺ばそっくりマネして建立した。1492年から3年がかりやったゲナ。
 第二尚氏の支援ば受けて繁栄し、庶民からは大寺(うふ うてぃら)て呼ばれとったバッテン、立派やった七堂伽藍は、放生橋(ほうじょうばし)だけ残して、第二次世界大戦で全部焼かれてしもうた。
 戦後、山門のみ復元され、敷地の一部はいま沖縄県立芸術大学の一部になっとる。

爆撃受けて残ったとは 日本で一番古か石の橋ひとつ    「沖縄県の」の目次へ

 

 寺の前にある円鑑池(えんかんち)では、中国からの冊封使(さっぷうし)ば招いて宴が開かれるなど、琉球王朝史の中で極めて重要な位置ば占めとったらしか。

 明治時代の琉球処分後、仏殿、三門、方丈などの寺の伽藍は国宝に指定されとったとバッテン、今は焼け残った放生橋と、復元された山門以外はなぁもなか。

 
鐘だけは沖縄県立博物館の庭に展示されとるゲナ。建物全部が復元されたら戻ってくるやろう。

 放生橋は室町時代のもので、中国の石工の作て言い伝える石の桁橋。高欄に弘治戊午歳(1498)の銘がある。
橋は四枚の琉球石灰岩の板石ば橋台の上に架け渡して出来とる。

 高欄の石材は中国産の輝緑岩(きりょくがん)で、親柱の柱頭には蓮座の上に子づれの獅子の彫刻があり、羽目石には牡丹、蓮華、獅子などが浮き彫りされとって、これは沖縄彫刻の最高傑作ていわれとる。
 沖縄返還後の昭和47年(1972年)、国の重要文化財に指定された。

復元された山門
北側から見た山門と放生池               

 本家・鎌倉の円覚寺は
 1282年(弘安5年)鎌倉時代の後半に北条時宗が中国から無学祖元禅師ば招いて創建された。時宗は18歳で執権職につき、不安な武家政治の中で心の支えとして、無学祖元禅師ば師として深く禅宗に帰依しとったていわれとる。
 時宗は禅ば広めたいていう願いと、蒙古襲来による殉死者ば敵味方区別なく弔うために、円覚寺建立ば思い立った。

 円覚寺の名前の由来は建立の時、大乗経典の「円覚経」が出土したけんゲナ。開山国師(無学祖元禅師)のあとは高峰顕日、夢窓疎石て受け継がれ、室町時代に日本の禅の中心的存在やった。

 尚真王が真似たとが、ただ単に伽藍の配置やら、建物の格好だけやったとか、臨済禅に帰依しとったケン、心も真似たとかまでは分からん。

円覚寺の入口
米軍に焼かれる前の円覚寺伽藍

 場所・沖縄・那覇市首里当蔵町。ゆいレールの終点・首里駅から鳥堀の交差点ば西へ龍潭通り(県道29号線)ば10分。首里当蔵郵便局の先で左折してすぐ左手にある。向えには沖縄県立芸術大学がある。       取材日 2008.1.23

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