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嫁さんに裏切られた阿麻和利(あまわり)の城      「沖縄県の」の目次へ
 絶世の美女がおった。だいたい伝説やらに出てくるとは美女て決まっとる。博多弁で云えばクサ「とつけむなか、じょうもんさん」タイ。
 名前は
百十踏揚(ももと ふみあがり) 首里の中山王・尚泰久(しょう たいきゅう)の娘ていうことになっとるバッテン、中山王の忠臣やった護佐丸の子ていう説もある。
 この勝連城主の
阿麻和利(あま わり)ば語るとき、この美女ばのかす訳にはいかんとタイ。

 勝連城主は初代の大成王5男から、4代世襲で続き、6代に世継ぎがおらんやったケン、伊波グスクの6男。7代8代が浜川按司で、9代目に茂知附(もちづき)按司が出てくる。

 
勝連城が最も繁栄したとは、14世紀後期から15世紀前期で、茂知附按司やら阿麻和利(あまわり)が活躍した時代ていう。

 茂知附按司は「望月」じゃなかかても言われ、その出自はよう分からんバッテン、名前からして、琉球外のもんらしか。ひょっとしたら倭寇やなかろうかても考えられる。

 この茂知附按司に見出されたとが、幼名ば加那(かな)ていうた、のちの阿麻和利やった。
引き立てられたもんの、茂知附按司の暴君ぶりに人々が苦しんどるとば知っとる阿麻和利は、ついに意を決して按司ば倒すために立ち上がる。

 ある晩、阿麻和利は「長か松明の一隊が遠くに見え、移動して来よりますバイ」云うて、茂知附按司ば城の物見櫓に呼び出した。酒宴の最中でご機嫌の按司が、言われるまま城壁に登って、遠くに目ばこらしよる瞬間、阿麻和利は後ろから按司ば突き落とした。50mもの崖下に落ちて按司はひとたまりものう死んでしもうた。実は松明の一隊も、按司ばおびき出す阿麻和利の仕掛けやったとタイ。

 こうして、茂知附按司に代わり阿麻和利が10代目の勝連城主になる。暴君ば倒した阿麻和利は、勝連の人々から救世主のごと思われた。また彼が善政ば布いたことで勝連は栄え、按司としての地位ば強めていつたていう。

 阿麻和利ば讃える
おもろ(沖縄の歌)が残されとる。
 勝連の阿麻和利や
 聞こゑ 阿麻和利や
 大国の鳴響み
 又肝高の 阿麻和利
(翻訳すれば、勝連の阿麻和利、名高い阿麻和利、国の誇り、肝高(勝連のこと)の阿麻和利。阿麻和利万歳)

 勝連は何にぎや 譬ゑる
 大和の 鎌倉に 譬ゑる
 又肝高わ 何にぎや
(勝連は何にかたとえよう、大和の鎌倉にたとえよう)

 日本の鎌倉にたとえられるごたあ繁栄ぶりやった、そんくらい勝連は海外貿易やらで経済的にも急速に勢力ば強めていった。

 一方、阿麻和利の躍進ば警戒したとが首里の
中山王・尚泰久(しょう たいきゅう)タイ。

 娘の百十踏揚(ももと ふみあがり)ば阿麻和利に嫁がせて、その関係維持ば図っとったバッテン、阿麻和利の勢いがだんだん脅威になってきた。

 そこで王府の尚泰久は、座喜味城におった護佐丸ば、中城グスクに移して阿麻和利ば監視させようとした。

 沖縄の地図で分かるごと、中城グスクは勝連城から首里城にいく中間にある。

 中城に入った忠臣の護佐丸はクサ、王の命に従うて城の防御ば拡張したり、兵ば増やしたりしよった。

 頭の良か阿麻和利は、それば逆手にとって、尚泰久にチクる。「護佐丸に謀反の企てあり。城の拡張ばしたり増兵しよるとは、首里のあんたば攻めるつもりですバイ」

 尚泰久の嫁さんは護佐丸の娘でもあり、長く護佐丸の忠義な姿ば見てきた王は、にわかに阿麻和利の云うことが信じられんやった。

 一方、阿麻和利は自分の娘の婿さんタイ。それが熱心に云うて来るもんやケン、泰久王は重い腰ばあげて密使ば中城に走らせた。

 阿麻和利に対するため軍備ば進めよったとば、密使が勘違いして「中城に挙兵の動きがある」いうて報せたもんやケン、尚泰久は慌てだす。

 阿麻和利ば護佐丸討伐軍の大将にして、王府軍ば中城に差し向けた。

 沖縄の民話では、このとき護佐丸は城ば包囲しとるとが王府軍て聞くと、王に対する忠誠心から、一切反撃せずに幼児やった三男盛親ば乳母に託して城外に脱出させ、妻子とともに自害したていわれとる。

 護佐丸盛春 1458年の秋のことやった。

 おかしかことに、王の右腕として活躍したにもかかわらず護佐丸にまつわる民話が、何ひとつ残っとらん。

 阿麻和利がチクッて王府ば欺したことになっとるバッテン、もともと王府は武闘派の護佐丸が、時代の流れで邪魔になったケン滅ぼした、ていうことも考えられる。

 それで意図的に護佐丸の民話も消されてしもうたとかも知れん。

 中城ば治めとった護佐丸の墓が中城の城内に無うて、近くの「台グシク」にあり、護佐丸の兄の伊寿留(いじゅるん)のお墓は中城跡にあるていうともおかしな話しタイ。

 中山王府の謀略はまだまだ続く。

上、布積みの城壁。 下、二の郭にある拝所

  上手いことライバルの護佐丸ば倒した阿麻和利は、次に、いよいよ念願の王府打倒の軍ばあげるごと準備ば始めとった。

 ところがその計画は、妻・百十踏揚の付け人、鬼大城(おに おおぐすく)こと大城賢雄(うふぐすく けんゆう)の知るところとなる。

 踏揚はここで悩んだ。「忠ならんと欲すれば、孝ならず。孝ならんと欲すれば、忠ならず」夫を立てるか、父を立てるか。

 しかし、結局夫ば捨てて踏揚は「父ちゃん一大事バイ」て首里の父に知らせるため、鬼大城と夜の勝連城ば抜け出した。

 しばらくして、踏揚と鬼大城が消えたことば知った阿麻和利は、さっそく追っ手ば差し向ける。

 距離ば詰められた鬼大城は、追って来る勝連兵士たちの松明が見えると、万事休す。物陰に隠れて天ば仰ぎ、次の
おもろば唱えたていう。
  百十踏み揚がりや
  天地 よためかちへ
  天 鳴らちへ
  さしふ 助けわちへ
(博多弁なら、神様もし、天地ば揺り動かしても、天ば鳴らしても、神女である百十踏揚ば助けてつかあさい)

 そうしたら、どうじゃろかい、俄かに大雨が降り出し、追っ手の松明の火は消えた。真っ暗になって追跡ば諦めたらしか。踏揚と鬼大城はそのまま追っ手ば逃れて首里にたどりついたゲナ。

 急ば知った尚泰久は、すぐさま鬼大城ば阿麻和利討伐軍の大将として出兵させ、先手ば打って勝連城ば攻め落とした。

 たとえ絶世の美女やったっちゃ、政略結婚はこげな目にあわされるケン、イカン。古城ば舞台に繰り広げられた壮絶なドラマ。
 沖縄の歴史もロマンちゃいうもんの、むごかねぇ。

 王府の策略にはまったとは護佐丸やったとか、阿麻和利やったとか
王府にとっては、護佐丸も阿麻和利も、謀反を起こしかねん相手ということで、両者相打ちば狙うとったとかも知れん。

 阿麻和利ば成敗した勲功により、鬼大城は越来(ごえく)グスクば与えられたうえ、百十踏揚まで妻としてもろうた。
 美女は運命に翻弄されるごとなっとるとタイ。

 しかし、その鬼大城は、尚泰久の後ば継いだ第二尚氏の祖・尚円(しょうえん)に知花グスク(ちばな)で攻められ、洞窟で最期ば遂げてしまう。

 波乱の美女・百十踏揚はどうしたかていうと、鬼大城が死んだ後は、玉城(たまぐすく)にひきこもり、ひっそりと余生ば送んなったゲナ。

 南城市の玉城には、県指定の城跡がいまも残っとる。

 阿麻和利が討たれてからの勝連城は、その後有力な按司が立つこともなく、強固な戦いのグスクも、朽ち果てていった。

上、美しいカーブを持つ三の郭の城壁。
下、四の曲輪の井戸のうち「夫婦ガー」
  (ガーは井戸のこと)」

 その勝連城は、太平洋に突き出した勝連半島のつけ根に近い南風原(はえばる)にある。

 主郭として、一の曲輪(くるわ)二の曲輪、三の曲輪が連なり、一の曲輪ば頂点にして段々に高く造られとる。

 ふもとに当たる四の曲輪は、南側に大手門(正門)やった南風原御門(はえばる うじょう)、反対の北側には西原御門(にしばる うじょう)ていう2つのアーチ門が開いとった。

 この四の曲輪には、4ケ所の井戸の跡がある。グスク内に十分な水ば確保できれば、グスクは強かていう訳。

 勝連城ば縁取るように築かれとった城壁は、大正期まで残されとったげなバッテン、近くの護岸工事が始まったとき、城壁の石のほとんどが工事資材として持ち出されてしもうたらしか。こん頃は史跡の保存なんて余裕も関心もなかったっちゃろう。

 三の曲輪からは、上に登る道の勾配が増す。この曲輪の入り口には、最盛期大きな木造の楼門(ろうもん)があって、ここの広場では、城内の祭祀行事が営まれとったらしい。

 三の曲輪から一段高い二の曲輪には、按司の館、つまり、正殿に相当する瓦葺きの建物があったらしいことがわかっとる。瓦葺きの殿舎があったとは、首里城と、浦添グスク、そしてこの勝連グスクだけやったていわれとる。

 この曲輪の北側の敷石道ばのぼり詰めた所が、勝連城跡のいちばん高っか一の曲輪。勝連城が栄華を誇った時代には、アーチ門が設けられとったそうやが今はなあーも無か広っぱ。

 一の曲輪からの眺めは雄大で、勝連地域一帯を眼下に、北には北部に連なる山々、南には海によこたわる知念半島の全景が見える。宿敵・護佐丸(ごさまる)の牙城中城も、中城湾の向うに一望できる。

 勝連城の成り立ちは、遺構調査などによって、12世紀までさかのぼることができるていわれ、繰り返し城壁の修復ばした形跡などから、長い年月の経過のうちに要塞化していったて考えられとるとゲナ。

 2000年11月、首里城といっしょに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産に登録された。

 場所・沖縄うるま市勝連町。那覇から沖縄自動車道。約20キロの沖縄北ICで降りる。東へ県道36号・16号とつないで川田の信号から県道8号ば走ると左手の山上に見えてくる。県道沿いに資料館と駐車場がある。   取材日 2008.01.22

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