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謀略に果てた築城の名手護佐丸(ごさまる)         「沖縄県の」の目次へ

 裏門と三の曲輪の城壁。ここは新城(みーグスク)ても呼ばれ、後から護佐丸が増築した部分らしか。

石積みがもっとも進んだ「あいかた積み」(亀甲乱れ積みてもいう)で、ぺりー提督もたまがった中城の一番よかとこ。

 中城城(なかグスクじょう)は、名将・護佐丸(ごさまる)の居城として名高いバッテン、護佐丸がここに来る以前から、歴代の按司(あんじ)たちが根城にしとって、伝承では13世紀に中山王に就いた英祖(えいそ)が、自分の子ば中城按司にしたとき城ば築かせたていうことになっとる。

 英祖王統ていうとは、1260年から5代90年続いた王統で、つづく察度(さっと)王統の2代56年間では、中城ば治めたていう按司の記録は見あたらんケン、尚巴志(しょうはし)による三山統一まで、英祖王統ゆかりの按司が中城城ば守っとったちゃろう。

 1440年、護佐丸は、中城城に移ってから、三の曲輪と北の曲輪ば増築したて云われとるバッテン、その以前からすでに高い石垣やら城の主要部分はつくられとったごたる。

 尚巴志亡き後、第6代の中山王・尚泰久は、勝連に台頭した阿麻和利(あまわり)の勢力ば牽制する目的で、護佐丸ばここに配置したていうことは、勝連城で書いた通りタイ。

 こうして中山王府にとっては、勝連の阿麻和利に対する中城の護佐丸ていう、もってこいの構図が出来上がっていった訳バッテン、最初から護佐丸と阿麻和利がけんか腰でにらみ合いしとった訳じゃなか。

 
護佐丸と阿麻和利は、お互いに手が出せんままやったが、首里の中山では歴代の王が短期間で次々に代わり、1453年には跡継ぎの問題から「志魯・布里の乱」(しろ・ふりのらん)ていうとがが起ったりして首里城も焼けたりしよった。

 中山が不安定ながらも、6代王・尚泰久(しょうたいきゅう)は、娘の百十踏揚(ももと ふみあがり)ば阿麻和利に嫁がせ、縁戚関係を結ぶことで、阿麻和利の圧力ば牽制しとった。

 尚泰久王の嫁さんは、護佐丸の娘やケン、百十踏揚が阿麻和利に嫁いだら、護佐丸と阿麻和利も形式上は縁戚関係やったいうことになる。日本の戦国時代もそうバッテン、この勢力者同士の、政略結婚はややこしか。

 こうして、一応の平和は保たれとったとやが、正史が伝える「護佐丸・阿麻和利の乱」が、1458年に起こったことは、これも勝連城で書いた。
 護佐丸は、王府の旗をひるがえして攻め込む阿麻和利の軍勢を前に、逆らうことなく敵に門ば開いて、夫人や子供といっしょに自害したて云われとる。

 護佐丸ほどの名将ならば、王権奪取の野心ば抱いとって当たり前タイ。難癖つけて滅ぼしたとは、王府にとっては、脅威の存在としか見えんやったに違いなか。

 それば裏付けるごと尚泰久王の没後、世子(せいし)である金橋(かなはし)は、弟の多武喜(たぶき)といっしょに「志魯・布里の乱」で首里ば追放され、側室の子やった尚徳(しょうとく)が王位につく。金橋、多武喜はともに正室の子やったバッテン、母方の祖父は護佐丸やったていうややこやしさタイ。

 中城(なかグスク)城跡は、当時貿易港やった屋宜港(ヤージンナト)から2kmほど離れた標高約160mの丘の上にあって、石垣の上に立ったら西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)まで見渡せる。

 北中城村の南側に伸びとる丘陵の東の崖ば天然の要害として、城の広さ144,73?(約4,300坪) 300余りもある沖縄のグスクの中で、最も遺構がよく残っとる城跡ゲナ。

 
中城城は連郭式の山城で、西側に正門、東側に裏門があって、六つの曲輪で構成されとる。

 城壁は、主に琉球石灰岩の切石が使われ、石垣は
野面積み(南の曲輪)、布積み(豆腐積み、一の曲輪、二の曲輪)、アイカタ積み(亀甲乱れ積み、北の曲輪、三の曲輪、物見台)と、それぞれ違う積み方になっとる。これは築城が一度にされたっちゃなかったことの証拠ゲナ。

 1853年に来島したアメリカのペリー提督も、博多弁で翻訳したら、
「その石造建築は、賞賛すべきもんで、石は非常に注意深く刻まれてつなぎ合わされ、漆喰もセメントも使うとらんバッテン、耐久性には全然問題があるとは思われん」て讃えとんなる。

 西の正門から入っていくと、
 
「西の曲輪」 馬の訓練ばしたらしか、長さが東西に120mもある細長い曲輪。

 「南の曲輪」 西の曲輪の左手に、下りて行くと立派な井戸があった。井戸の反対側、右手の石門ばこぐると木の生い茂る遥拝所。かつて、首里や久高島(くだかじま)ば遥拝したり、雨乞いばした御嶽の跡て思われる。
 南の曲輪の城壁には、城が戦場となった場合に備えてのことやろう、矢狭間(やはざま)が作られとった。

 「一の曲輪」 城内でいちばん高うて広か曲輪。
 正殿(せいでん)や護佐丸が宴ば催したていわれる観月台がある。
 のちには番所が置かれ、廃藩置県後は中城村役場に使用されとったが沖縄戦で焼けてしもうたゲナ。

 「二の曲輪」 ヌノ積みの城壁

 「三の曲輪」 新城(みーグスク)ても呼ばれとる。
 最も進んだ石積技術が使われとって、石の積み方から、ほかの曲輪と築造年代が違うことが分かり、座喜味城から移ってきた護佐丸が増築したていう説が生まれた。
 なるほど、護佐丸が築いたていう座喜味城の城壁の石積みとまったく同じやった。

 「北の曲輪」 護佐丸が井戸ば取り込んで増築した。

 
「カンジャーガマ」 鍛冶屋跡ゲナ。阿麻和利に対抗するために武器ば作っとったていう説がある。

北の広場から見た三の曲輪と右側に、ペリー提督がエジプト式て絶賛した精巧なアーチの裏門はむかって右にある。
北の曲輪から三の曲輪への石段  南から一の曲輪へのアーチと布積みの壁。古かケン補強してあった

 北の曲輪にある「うふガー」西の曲輪には「夫婦ガー」いうふたつの井戸がある。城にとって水の確保は生命線やった。

上・南の曲輪にある遙拝所。全部で八個所ある。
下・護佐丸の兄「伊留寿」の墓は城内にある。

 1945年(昭和20年)沖縄では、太平洋戦争の沖縄戦で多くの文化財が無うなってしもうたバッテン、中城城跡は戦争の被害が少なかったケン、グスクの石積みがいちばん手つかずで残っとる城跡らしか。現在も発掘・補修・復元工事がすすめられとる。

 1972年(昭和47年)5月15日(沖縄日本復帰の日)に国の史跡に指定され、2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの
世界遺産(文化遺産)に登録された。
 登録名は「中城城趾(ナカグスクジョウシ)」 城の字がふたぁつ続いて、ちょっとひっかかるバッテン、もともと「中城」場所の名。四日市市で市がダブルと一緒タイ。いたらん脱線バッテン、市が三つ並ぶ地名もある。三重県四日市 市市場町、滋賀県八日市 市市辺町。南あわじ市 市市ていうとこもある。読み方は「南あわじ市(し)市(いち)市(いち)」

 
護佐丸の墓は、中城城のすぐそばの「台グスク」にあって、県内で最も古か亀甲墓として文化的にも価値の高っか墓ゲナ。護佐丸の死後、その子孫の毛氏豊見城家によって築かれとると。
 兄貴の墓は城内にあるとに、なし護佐丸の墓は城の外にあるとか。こら分からん。

 琉球が3つの勢力(北山・中山・南山)に分かれて、争いよった三山時代、歴史に出てくる王の名前は、一見みんな中国風。
 例えば、察度(さっと・中山王)とか、攀安知(はんあんち・北山王)とか、南山王の汪応祖(おうおうそ)。護佐丸が毛国鼎(もうこくてい)やもんねぇ。こらあ、なしかいね。沖縄人じゃなかったと ? 。おかしかバイ。

 昔の沖縄の王は、領地名とか童名でしか呼びよらんやった。それば貢ぎ物ば受けよった中国・明の官僚が、耳で聞いて、その音ば漢字に当てはめたちゅう訳よ。その証拠に、「察度」の子は「武寧」で、察が姓じゃなかとタイ。

 南山王の「他魯毎」は「たろもい(太郎思い)」で、北山王「怕尼芝」は「はねじ(羽地)」て云う具合たい。知らんやったら「おろーっ」て思うけど、他愛なかことやった。

ほかと石垣の作りが違う新城(三の曲輪)は、座喜味城から移った護佐丸の作ていわれる。こらあ攻めにっかろう。

 場所・沖縄県中城村。沖縄自動車道ば北中城ICで降りるか、那覇から国道329号線ば西原町経由で、約15km北上する。
 中城公園入口の信号を左折して、坂を登っていく。駐車場はタダやが入場料が300円。    取材日 2008.1.22

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