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誰が泣いたか今帰仁城跡(なきじんグスク)       「沖縄県の」の目次へ

琉球に統一王国が成立する前には、北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)て呼ぶ三つの小国家が並立しとった。まあいうたら地方の豪族いうところやねえ。

 それぞれが勝手に、北山王・中山王・南山王て名乗り勢力争いに明け暮れとった。歴史上この時代のことば、散々な時代いう訳じゃなかろうバッテン、
三山(さんざん)時代ていう。

 
今帰仁グスクば拠点にしてクサ、沖縄本島北部地域ば支配しとったとが北山王やった。それにしても今帰仁ば「なきじん」ちゃあ、なかなか読めるもんじゃなか。それにグスクいうたら城のことゲナ。そやケン、なきじんグスクいうたら、今帰仁城のことタイ。

今帰仁城は、13世紀頃から築かれたとされとるバッテン、正確な時期やら、誰が作ったとかは分からんゲナ。発掘して見たら、4期に分けて増築されたことが分かったとげなバッテン、おそらく長か年月ば経て今日の規模になったとやろう。

 グスクていわれる沖縄の城は、多くの場合その生い立ちからして、宗教的性格が強く、初めから天守閣や櫓・曲輪などがあった訳じゃなか。

 城内の各所に火の神はじめ、イベや拝所が散在しとって、祭祀ば司った神女(ノロ)たちの館が、主要部にあるとが当たり前の配置やった。今帰仁城にもその特色が残っとる。

この城のことが最初に出てくる文献は、14世紀中国の「明実録」で、伯尼芝(はにし)攀安知(はんあんち)ら北山王の名前やら、進貢貿易について書いてあるらしか。

 いま実施中の発掘調査で、当時の大規模な建物の礎石、明(みん)時代の古銭や陶磁器の破片、装飾具などが出土しとってクサ、その記事が間違いなかことば裏付けとるとゲナ。

 
最後の城主やった攀安知(はんあんち)は、腹心の大将 やった本部平原(もとぶてーはら)ば使うて、武力の強化・拡充に努め、周辺の按司(あんじ)達からとても恐れられた存在やったらしか。

 按司いうたらなんかて云えば、昔の沖縄の豪族いうか、地方の領主のこと。按司の中のいちばん強かとが王になっとるとタイ。

 攀安知は最大のライバルやった沖縄本島中部の中山(ちゅうざん)侵攻ば計画しとったとバッテン、ほかの按司たちが中山王のほうに寝返ってクサ、「先に北山ば攻略しなっせ」てたきつけたもんやケン、中山王の
尚思紹(しょうししょう)は、息子・尚巴志(しょうはし)に「北山の攀安知ば攻めろ」て命じた。

 尚巴志は応永23年(1416)に、約3千人からなる連合軍ば結集して今帰仁グスクば攻めた。当時の沖縄の人口が約8万人程度やったことば考えると、これはいかに大規模の連合軍やったかが想像できる。1416年いうたら、日本では南北朝の少し後、足利将軍の頃タイ。

 しかし、天然の要塞やった今帰仁グスクは堅かった。連合軍の昼夜・三日間に渡る攻撃ば頑張って撃退した。正攻法では攻略でけんとみた尚巴志は、密使ば送って攀安知の腹心・本部平原ばだまくらかした。

 おびき出された北山軍が城外で戦いよる間に、尚巴志の特殊部隊が城内に侵入して、かき回したもんやケン、さしもの今帰仁グスクも攻略され、北山軍は敗北したていう。
 負けが決まった北山王・攀安知は、守護神にしとった霊石ば斬りつけ、かえす刀で自害したていう。

 以後、今帰仁には、中山王の北山監守(ほくざんかんしゅ・目付役)が派遣され、今帰仁グスクは、17世紀初め頃まで北山監守の居城として使用されとったゲナ。

城の正殿(せいでん)は残っとらんバッテン、標高100mほどの城の周囲は、川や谷の急斜面となっとって、防衛上は極めて都合の良か地形に見えた。

 見応えがあるとは、なんちゅうてもその城郭タイ。外周は約1500m、高さは6〜10mで自然の地形に沿って巡らされた様子は「万里の長城」ば想像させる。

 沖縄グスクの城郭の大半は、琉球石灰岩で積まれとる(首里城も同じ)げなバッテン、今帰仁城の城郭は古生期石灰岩の自然石ばっかしで出来とって、他とは違う様相ば見せとるとが特徴らしか。

 今帰仁城ばみとったら「こらあ天然の要塞で、攻め落とすなんてでけんばい」て思うたバッテン、今までに2度の落城ば経験しとるとゲナ。

 1回目は先に述べた中山の尚巴志(しょうはし)王によって滅ぼされた時、2度目は慶長14年(1609)、薩摩軍に琉球が侵略された時に落城しとる。

 北山監守の制度(幕府のお目付役みたいなもんやったっちゃろう)は、その後も続いたげなバッテン、寛文5年(1665)に廃城となってしもうたらしか。

今帰仁城の女官たちがおった御内原(ウーチバル)からは、城郭の様子がひとめで見られる。東シナ海がきれい。天気が良ければ、伊是名島(いぜなじま)から与論島まで見渡すことができるとゲナ。

 民話がある。今帰仁城ば作り始めたとき、城壁にする堅か黒石ば削るとが難しく、工事の人達は大変な苦労ばしよった。
 丁度その頃、北谷村(ちゃんたむら)からクサ、何でも切れる
北谷ナーチラーていう妖刀が献上され、これで切ったらさすがの堅か石もスパスパ切れて城壁作りがはかどったていう。
 今帰仁城の石垣に細か鑿の跡がなかとは、
北谷ナーチラーでスパッと石ば斬ったけんゲナ。

 志慶真乙樽(しけま うとぅだる) の美談

 時代は怕尼芝(はにじ)が今帰仁城ば治める以前。
 志慶真(しけま)村の出身で、
乙樽(うとぅだる)ていう美しか娘がおった。美人やったらよくある話しで、今帰仁城の按司に迎えられて側室になった。

 ところが乙樽が側室になつた途端、なしか知らんが、それまで長いこと子が生まれんやった正室に子がでけた。千代松て名づけられた。

 跡継ぎができて安心したとも束の間、家来の本部大主(もとぶ うふぬし)ていうとが反乱ば起こした。

正室も、側室も命からがら城から逃げ出したっちゃが、産後間もない正室は、逃げ切れんとば悟って乙樽に千代松ば託し、志慶真川に身ば投げてしもうた。
 その後、乙樽に育てられて一人前になった千代松は、丘春(おかはる)ていう名に改め、父の仇の本部大主ば打ち倒した。そして、自らが若按司となって今帰仁城に帰ってきた。

 若按司の丘春ば支えたとは、自分の子のごと育てた乙樽やったケン、その美貌と献身的なふるまいば讃えて
「今帰仁ウカミ」ていう言葉まで生まれたとゲナ。
 いまも今帰仁グスクの大庭の一角に、後世だれかが詠んだ乙樽の歌碑がある。

  「今帰仁の ぐすく 霜なりの 九年母 しけま乙樽が ぬきやいはきやい」

 「霜なりの九年母」いうとは、時期遅れのミカンのこと、「ぬきやいはきやい」は、九年母の実ば糸で繋いで掛けること。それから転じて、大切にすることゲナ。

今帰仁城の大庭にある志慶真乙樽の歌碑

 場所・沖縄県国頭郡今帰仁村。那覇から沖縄自動車道で終点の許田IC(きょだ)まで、国道58号線で名護市内宮里信号ば過ぎ、白銀橋の信号から県道84号線へ入って約10km。渡久地信号で右折して5km北上する。  取材日 2008.01.21

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