明治12年(1879) 明治政府の琉球処分で、正式に日本の領土の沖縄県になるまで、首里城は琉球国王の居城として450年間、その中心的位置にあったていう訳。
また、周辺の円覚寺(えんかくじ)、円鑑池(えんかんち)、玉陵(たまうどぅん)やら、園比屋武御嶽石門(そのひゃん うたき いしもん)なども、尚真王の代につくられ、王国の栄華ば象徴しとった。
琉球処分後、首里城は兵営になったり、城内に学校がでけたりしとったバッテン、老朽化で一時は取り壊し寸前になったこともある。有識者の運動で取り壊しば免れて生き延びとったら、1925年(大正14年)に正殿が国宝の指定ば受け、つづいて1933年(昭和8年)には、守礼門・歓会門(かんかいもん)・円覚寺・園比屋武御嶽石門などが国宝になっとるとタイ。
やっと琉球時代の古が遺産価値が認められるようになったと思うたら、1945年の沖縄戦の戦火でそれもこれもぜーんぶ灰になってしもうた。首里城の地下に日本軍第32軍の司令部壕があって、米軍の攻撃目標にされたけんタイ。
そういえば首里城は、長か歴史の中で4回も焼失し、その都度また再建されて今日まで来とると。
最初は、第一尚氏王統の第5代・尚金福(しょう きんぷく)が死んだ後、その跡目騒動で「志魯・布里の乱」(しろ・ふりのらん)が起こった年(1453)、争いのさなかで全焼した。
2度目は1660年、こらあ失火によって焼け落ちた。その当時は、王府が極度に貧乏やったケン、再建には11年もかかっとる。この再建時には、灰色の瓦で屋根ば葺いとったゲナ。
3度目は1709年、これも失火が原因で全焼。この年は己丑の大飢饉て言われ、数多い台風の襲来など、天災に見舞われた結果、琉球では3,000人以上の人が餓死する非常事態やった。
薩摩の援助などによって、やっとかっと3年後に再建。このとき、初めて赤瓦が使われたゲナ。
現在の首里城は、この3度目の復元様式にのっとって造られとるていう。
そして、4度目は戦争タイ。1945年の沖縄戦。首里城ばかりじゃのうて、周辺の貴重な建造物も全部が破壊された。
今では観光客が、チャラチャラして見に来とるバッテン、首里城の復元作業が完成したとは、平成4年(1992)、戦後47年目のことやった。
そして、2000年、世界遺産に登録された。
その首里城は、那覇市の東部、那覇一円を見下ろす標高120〜130メートルの丘陵地にある。抜群の眺望と、豊富な水に恵まれとるケン、城ば造るには最高の場所やったと思われる。

城郭の外から、守礼門(しゅれいもん)こぐれば、綾門大通(あやじょう うふみち)が歓会門に向かって伸びとる。
守礼いうたら「礼節ば守る」ていう意味で、扁額(へんがく)には「守禮之邦(くに)」て書かれとる。中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されとるとゲナ。
庶民は愛称として上の綾門(いいのあやじょう)て呼んだ。「上の方にある美しか門」いう意味。
1527〜55年、第二尚氏4代目の尚清王(しょうせいおう)によって建立されたと。
現在の門は、1958年に復元されたもので、西暦2000年の記念に発行された2,000円札の絵柄にもなっとタイ。
首里城の城郭内へ入る第一の正門が、歓会門(かんかいもん)
歓会とは歓迎するていう意味。別名あまえ御門(あまえうじょう)てもいう。「あまえ」ていうたら琉球の古語で「喜ばしかこと」ゲナ。
創建は1477〜1500年頃(尚真王代)で、沖縄戦で焼けたバッテン、1974年に復元された。
門は石のアーチ門の上に木造の櫓が載せてある。このスタイルは久慶門(きゅうけい)やら継世門(けいせい)と同じスタイル。
門の両側には「シーサー」ていう一対の石造の獅子像があるが、これは招き猫にしてはえずか(怖い)顔しとるケン、魔除けの意味やろう。
久慶門、継世門、木曳門(こびきもん)の4つは石造アーチ門になっとった。
歓会門ばこぐって内に入ると、瑞泉門(ずいせんもん)がある。
瑞泉(ずいせん)いうたら「めでたい泉」ていう意味で、門の手前にある湧水が龍樋(りゅうひ)と呼ばれ、それにちなんでこのように名付けられた。
ここは第二の門で、別名ひかわ御門(うじょう)てもいう。
創建は1470年頃。これも沖縄戦で焼失したが、1992年に復元された。
瑞泉門はアーチ石門の歓会門とは違うて、門の上に直接櫓(やぐら)ば乗せとる。このタイプの櫓門(やぐらもん)は日本本土の城門でも見ることができるバッテン、櫓の中央の「瑞泉」という扁額に琉球独特の味がある。
漏刻門(ろうこく)、広福門(こうふく)ば通って奉神門(ほうしんもん)に来る。
ここまではただバッテン、ここから中の正殿に入るとは800円も取られる。こらなかなか上手なやりかたバイ。 いっとき見よったけど、ここで引き返すもんはひとりもおらんやった。
そのほか城内には、右掖門(うえきもん)、
左掖門(さえきもん)、淑順門(しゅくじゅんもん)、美福門(びふくもん)、白銀門(はくぎんもん)の9つの門がある。
そして、これらの門が切石ば積み上げた高さ6mから10mの石垣でずーっと繋がった構造になっとる。
城内には、沖縄最大の木造建築ていう正殿ばはじめ、冊封使(さっぽうし)の歓待に使われた北殿、薩摩役人ばもてなした南殿が建つ。
それでは、奉神門ばこぐって正殿のある「御庭(うなー)」に入ってみまっしょう。




正殿は琉球王国最大の木造建造物で、国殿または百浦添御殿(ももうらそえ うどぅん)てよばれ、文字通り最も重要な建物やった。
二層三階建ての建物やら装飾化した龍柱は、日中にも例がなか琉球独自の形式が珍しか。
御差床(うさすか)いうたら王さんのいつもおんなるところタイ。後ろの障子戸ば開くと、奥に国王専用の階段(おちょくい)がある。
国王はその階段ば使うて2階から御差床に出てきなるとゲナ。御差床左右の柱には龍が描かれ、そのまわりには雲が配色されとる。赤と金で、もうもうそらあ豪華絢爛タイ。
園比屋武御嶽石門
城の北側には、園比屋武御嶽石門(そのひゃん うたき いしもん)がある。琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願ばした礼拝所ゲナ。形は門になっとるバッテン、人が通る門じゃのうて、いわば神への「礼拝の門」ていわれとる。
門の上部に掛けられとる扁額(へんがく)の内容から1519年、尚真王(しょうしんおう)の代に建てられたことが分かっとる。
八重山の竹富島出身の西塘(にしとう)ていう役人が築造したて伝えられとると。
琉球の石造建造物の代表的なもんで、1933年国宝に指定されたとバッテン、沖縄戦で一部破壊され、1957年(昭和32)復元された。
現在、国指定重要文化財になっとる。また2000年(平成12)にはこれも世界遺産に登録された。
それはよかバッテン、この門の読み方は何回聞いたっちゃ覚えきらん。
上から、守礼の門、歓会門、瑞泉門、奉神門で、ここまでならタダ。ここばこぐったら800円払わないかん。
博多弁でいうたら「きんきらきん」
こげんとこで暮らしよったら、目の色も顔の色まで、赤と金色に染まろうごたる。観光客は順路にうながされて、ゾロゾロと流れていくだけバッテン、ポイントでは写真も撮ってヨカごとなっとった。