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墓碑からモメごとが見える琉球王家の墓        「沖縄県の」の目次へ

 玉陵は、第二尚氏(だいにしょうし)王統歴代のお墓。

 日本でいえば文亀元年(1501)第三代の王・
尚真(しょうしん)が、父の尚円(しょうえん)ば密葬した見上森(みあげもり)から遺骨ば移すために造ったて伝わっとる。

 沖縄戦でぜーんぶ破壊されてしもうたとば、戦後、長いことかかって修復が行われ、1972(昭和47)年、沖縄の本土復帰とともに
全体が国指定史跡、石彫獅子と玉陵碑が重要文化財になった。

 2000年には首里城とともに世界遺産に登録された。

 玉陵の第一の門ばくぐったところに、この墓陵ば造ったとき建た碑文がある。玉陵に葬られとる王族関係者の、いうなら「入居者リスト」で9人の名が見える。

碑文によると、石碑は大明弘治十四年九月大吉日(1501)に建てられた。沖縄に現存する石碑では二番目に古かとゲナ。仮名書きで碑文の内容は、たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)
首里おきやかもひかなし、まあかとたる(首里、於義也嘉茂悲加那志、真嘉戸樽=尚真王のこと)
御一人よそひおとんの大あんし、おきやか(世添御殿の大按司、宇喜也嘉…尚円王妃=尚真王の母ちゃん)
御一人きこゑ大きみのあんし、おとちとのかもいかね(聞得大君の按司、音智殿茂金=尚真王の妹)
御一人さすかさのあんし、まなへたる(佐司笠の按司、真鍋樽=尚真王の長女)
御一人中くすくのあんし、まにきよたる(中城の按司、真仁堯樽=後の尚清王。尚真王の五男)
御一人ミやきせんのあんし、まもいかな(今帰仁の按司、真武太金=尚真王の三男)
御一人こゑくのあんし、まさふろかね(越来の按司、真三良金=尚真王の四男)
御一人きんのあんし、まさふろかね(金武の按司、真三良金=尚真王の六男)
御一人とよミくすくのあんし、おもひふたかね(豊見城の按司、思武太金=尚真王の七男)

この御すゑは千年万年にいたるまて、このところに、おさまるへし、もしのちに、あらそふ人あらハ、このすミ見るへし、このかきつけそむく人あらハ、てんにあをき、ちにふしてたたるへし

 筆頭には、「首里おぎやかもいがなしまあかとだる」てあり、これはなんのことか ?  博多の人間にはさっぱりわからんやったバッテン、尚真(しょうしん)王のことゲナ。
 以下、尚真王との関連で書けば、尚真の母・オギヤカ、尚真の妹・オトチトノモイカネ、尚真の娘・マナベダル、尚真の五男・尚清、同じく三男・尚韶威、四男・尚龍徳、六男・尚享仁、七男・尚源道の名が並んどる。

 碑文はまた「名ば刻まれた9人のもんの子孫たちは、同じく玉陵に葬らないかん。この碑文の内容に従わんもんは、たたりがあるバイ」なんていう意味の脅し文句が彫られとる。

 そんなら、この9人以外の王族は、ここには葬られんとかいな、ていう疑問がわくじゃあなかね。

上・東の御番所(あがりのうばんじゅ)
墓陵ば監視するための番所がおかれ、法事の時には国王の控え室にも使うた。
 復元するとき西の番所の図面ば反転したら、東の残っとった礎石に柱の位置がピッタリと合うたゲナ。
右・城のごと頑丈な外郭の壁と入口。

 尚円が死んだとき、子の尚真が、本来なら第二代王として王座に就くところやったバッテン、まあだ11歳のガキやったケン、早すぎるいうことで、二代目には尚円の弟、尚真からすれば叔父の尚宣威が選ばれた。

 ところが、この尚宣威の在位はわずか半年。なしかいうたら、即位の儀式のとき「不徳のゆえに、神の祝福を得られない王」ていう神のお告げがあらわれて、そのため尚宣威は自ら王位ば尚真に譲り渡す。
 この儀式の舞台で神に仕える女たちばシキっとったとが、
尚円の嫁さんで、尚真のかあちゃんオギヤカやった。大奥のプロデューサーが、なんかよからんことば仕組んだごたあ。

 この王位継承ばめぐるイザコザば背景に碑文ば見ると、本来、玉陵に葬られないかんもんが、入っとらんていうミステリーに気がつく。

 先ず、第二代王・
尚宣威の名が無か。それに、尚宣威の娘で尚真の正妃やった居仁(きょじん)の名も無か。王妃であるとい玉陵に葬られるリストに入っとらんちゃどういうことかいね。

 また、尚真と居仁の間には
尚維衡(しょういこう)ていう息子がおったっちゃが、宮中で女ばめぐる不祥事ばしでかし追いだされて、この子も入っとらん。不祥事の信憑性もあやしかもんバッテン、それは別としても、尚宣威、その娘で尚真の妃となった居仁、そして居仁と尚真の子・尚維衡ていう系統が、ことごとく玉陵からはね除けられとるっタイ。
 この碑文の本当の意図は、尚真王の長男・尚維衡が葬られるのば排除することが目的やったっちゃなかろうか。

 オギヤカも尚真王も死んで、尚清王が即位すると、この書き付けに反して、尚維衡ば玉陵に移葬したていう。

 どうでもよかバッテン、琉球王統のなかのモメごとば考えよったら日が暮れかかってしもうた。

 墓陵は、内郭と外郭に分れとる。墓域全体は、2,442平方メートル、約700坪もある。外郭の石垣のまん中に第一の門がある。

 そればくぐると、左手に玉陵の碑が立つ。正面は東西に石垣が走っとって、その中央には第二の門がある。

 第二の門の先が内郭。
まず広か庭があって、その奥に墓堂がある。

 墓堂は東側から東室、中室、西室と三つの墓室が連なっとって、端から端やったら 70mぐらいの長さがある。

 王族の葬儀が終わたら、遺体は先ず中室に安置された。そして、数年経った後、洗骨し、厨子甕(ずしがめ)や石棺に遺骨ば納めたらしか。

 王・王妃・世子は東室に、その他の王族は西室に葬られるとがならわしやったゲナ。

 墓堂は石造りで、各室の前面の石段をのぼると、露台があり、そこには獅子の飾りがついた勾欄(こうらん)がついとる。

墓の全景。左から直系だけが葬られる東室。真ん中が取りあえず遺体ば安置する中室。右はその他のご親族さま用。
それぞれ屋根の上にはシーサーがおって墓ば守っとった。

上・勾欄の羽目には龍・鳳凰・蓮などの飾り、柱にはいっちょ前に小さなシーサー。
右・墓室は切石でしっかりした作りになっとった。中は勿論見られんやった。

西室ば守る屋根上のシーサーは、布と玉ば持っとる。王家の財力ば守っとるとうとやろうか、東のシーサーは子供と戯れよるケン、これは家内円満やろうバッテン、王家もそうはいかんやったごたる。

 権力者は死んでまで大げさなもんば造りたがる。ピラミッドもそうやし、古今東西これはいっしょバイ。
 沖縄の墓は三種類あると。
 
亀甲墓(カーミヌクーバカ)形が亀の甲羅に似とるケンとか、女性の子宮ばかたどったてもいう。これには「死んだら出てきたところに帰る」ていう博多仁和加のごたあオチのついとる。
 
破風墓(ハフーバカ)これは王家の風習が後になって庶民に広がったもんゲナ。別名家形墓てもいう。墓は死んだ後の家ていう発想からすればまさにその通り。家のような作りになっとる。
 
ニービ墓 ガケば掘り込んだ形状の「墓」で、威風堂々としたりっぱな墓げなバッテン、見たことはナカ。


 
まあそれにしても、玉陵の沖縄式発音「たまうどぅん」はむづかしか。博多んもんは「うどぅん」が「うどん」になってしもうて発音でけん。切符売り場のおばさんなあ、さすがに地元。上手かった。

 場所・沖縄・那覇市首里金城町。ゆいレールの終点・首里駅から鳥堀の交差点ば西へ龍潭通り(県道29号線)ば10分。首里城公園入口の信号で左折。次の信号で首里城の反対側に右折すれば約100mで左側。入場料200円。 取材日 2008.1.23

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