1609年、薩摩の琉球入りでお堂は破壊され、方冊蔵経はどこさいか行ってしもうたバッテン、1621年になって新たにお堂ば建て、お経の代わりに円覚寺の方丈にあった弁財天像ば移して祀った。それからは弁財天堂て呼ばれ、橋も弁財天に渡る橋やケン、天女橋て呼ばれるようになったとゲナ。
その後荒廃したため、1685年に薩摩から新しか像ば移した。しかし、弁財天堂は沖縄戦で破壊され、1968年(昭和43)に復元されたとが、また今、補修されよった。
天女橋は琉球石灰岩ば使うたアーチ橋で、全長9.75m、幅2.42m、径間3.3m。
橋の形式は、石造の単拱(たんきょう)橋で、橋の中央アーチ上部が高く、その前後ばゆるい斜面にしとる。
構造様式からすると中国の南部地方に多か駝背橋(だはいきょう)に近い。らくだの背中に似とるケン駝背橋タイ。
橋の高欄は地元で「ニービの骨」て呼ぶ微粒砂岩ば使い、逆蓮宝珠(ぎゃくれんほうじゅ)の親柱ば立てて、平桁、架木(ほこぎ)ば組んどる。
欄干は蓮の彫刻で飾られとった。
橋台(きょうだい)は琉球石灰岩の切石(きりいし)ば、布積みでしっかりと組み合わせてでけとる。
そやけんアメリカ軍の爆撃ば受けたっちゃ、橋はわずかに傾いただけで生き残ったとゲナ。
だれが造ったとかは分からん。
分からんバッテン、日本でいちばん古か石造りのアーチ橋として、貴重な土木遺産タイ。
興味深かとは、橋の中心線が道路からの進入部分で、進入方向に向かってわずかに折れ、さらに中之島側ではその逆に弁財天堂に向かいわずかに折れとる。
実際橋に立ってみると、折れた動線に気付くことはなか。気付かせんごとこの橋ば造った匠はたくみな(ここシャレ)仕事ばしとる。 誰かは分からんバッテン、タダもんじゃなか。
円覚寺側から橋にいく小径には、階段の段数ば奇数で配置した、いわゆる「七五三の階段」がある。
階段の上り下りのリズムば形に活かし、視点が変化することで景観動きば感じるごと計算されとるとタイ。そやケン、歩きよって楽しくなる。
今は弁財天堂の修理中やケン、ごたついとるけど、出来上がったら円鑑池・中之島・弁財天堂・天女橋が作り出す空間は、新旧の人工美が見られるやろうや。



円鑑池と龍淵橋(りゅうえんきょう)
手前の円鑑池と向こう側の龍潭(りゅうたん)との境に架かる橋。天女橋と同じ頃に建造されたらしい。 ここからあふれた水が隣の池「龍潭(りゅうたん)」へ流れとる。ここも沖縄戦で壊されたが、1968年(昭和43)に修復された。池の水深は3メートルほどゲナ。ここでは中国皇帝の使者・冊封使ば歓待する船遊びの宴も行われたていう。
龍潭(りゅうたん)
「龍潭(りゅうたん)」は1427年に造られた人工の池。かつてこの付近に建てられとった沖縄最古の碑文「安国山樹華木記(あんこくざんじゅかぼくき)」によれば、国相懐機ていう人が中国にいって、造園技術ば学んできてこれば造ったとゲナ。
当時は庶民がくつろいだ名勝やったとやろう。
「円鑑池」と「龍潭」から首里城へかけての急傾斜の緑地は通称「ハンタン山」て呼ばれとって、鬱蒼(うっそう)とした林やったらしか。戦前は高さ10メートル以上ものアカギの大木が生えとったていう。
上・円鑑池と修理中の弁財天堂
左・手前が円鑑池でその奥が龍潭。両岸はいまでも鬱蒼とした林になっとる。
下・円鑑池と弁財天堂修理のいきさつが書かれとる石碑。
弁財天
天女いうたら、吉祥天か弁財天やろう。弁財天は弁才天ても書くけど、弁天さんのほうが通りがヨカ。もともとはインドの神で、サンスクリット語の「サラスヴァティー」ていう。水とか川ば司る豊穣の神タイ。
日本では人気もんでファンが多か。相模の江ノ島・安芸の宮島・近江の竹生島・大和の天川・陸前の金華山にござって、これば日本五弁天ていいよる。
始め日本に来なったときはクサ、八本の手に武器ば持つ女神やったとバッテン、そのうちい琵琶ば抱いたりして、だんだん女らしゅうなんなった。豊満な江ノ島の弁天さんな、とうとう全裸になってサービスしよんなる。
本来は福徳ば授けてくれる神バッテン、なんせ女の神やっケン、アベックでお参りしたら、ヤキモチ焼きなってよかことあなかゲナ。
メタボやら奇形児ばっかりの七福神(大黒天 ・ 恵比寿神 ・ 毘沙門天 ・ 弁財天 ・ 福禄寿 ・ 寿老人 ・ 布袋和尚)の中では、紅一点いうこともあって目立っとる。川柳でも「弁天をのければあとは片輪なり」て特別扱いになっとる。
いちばん上から、欄干の彫刻は蓮の花(逆さ蓮)
道路から見た天女橋。弁財天堂は修理中
円覚寺側から見た天女橋。
切石ば上手に組み合わせた橋の橋台
龍潭の方からみた天女橋。