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屏風のごたる城壁座喜味城跡(ざきみグスク)       「沖縄県の」の目次へ

 琉球の戦国時代に護佐丸盛春(ごさまるもりはる)ていう武将がおった。山田城主の子として生まれとるとバッテン、生年月日は分からん。山田城いうとは、名護市から58号線ば30キロばかり南下したところ、恩納村の南端にあった。那覇からやったら30キロ北になる。

 いまはもう城の跡形もなか。戦争でやられたとか、云うっちゃのうして、護佐丸が座喜味城ば作ったとき、石垣からなんから、ありこなんぱち運んでいってしもうたけんタイ。

 ざこ丸じゃなかった。護佐丸(ごさまる)が山田城の南西4キロに、この座喜味城ば作ったとか1422年。護佐丸はその6年前の1416年に、尚巴志(しょうはし)の北山討伐に従軍して、今帰仁城(なきじん)ば落城させ、それからずーっと北山監守として今帰仁城に駐留しとった。

 今帰仁城ば落としたことによって北山勢が滅亡し、その脅威が無くなったことと、海外貿易の面からこの地がよか思うて、5・6年前から、この新しか城ば作らせよったごたる。

 この城からは、北は今帰仁城のある本部(もとぶ)半島、南は首里・那覇方面が一望できるケン、のろし台としても丁度よか場所やった。1422年、護佐丸は今帰仁城から座喜味城に帰ってきた。

 そして、1440年に首里王府の命令で、当時、勢力ば伸ばしてきた勝連城主の
亜摩和利(あまわり)ば牽制するため、中城(なかグスク)に移るまでの18年間、ここで過ごしたことになる。

 座喜味城は西海岸ば見渡せる標高125mの丘の上に築かれた。
 この築城には、奄美諸島からまで労働者ば駆り出したていわれとって、護佐丸の勢力が奄美諸島にまでおよんどったことが分かる。

 城は主郭と二の郭(くるわ)からでけとって、外周365m、城郭内4,012平方メートル(約1200坪)で、沖縄の城としては中規模のものらしか。

 
沖縄には大小合わせると300から400の城があったらしかバッテン、ここは築城の時期がはっきりしとる数少ない城ゲナ。そして、ほかの城は硬か石灰岩台地にあるとい、ここだけは赤土の台地に建てられとる。こげな城も沖縄では珍しかて、これは城の専門家さんの話し。

 やわらかい地盤ば強化するため、城壁ば屏風のごとしたり、崩落せんごと一部城壁の巾ば広げたり工夫がされとる。城壁は琉球石灰岩による「あいかた積み」ば基調に、アーチ門とその両脇ば整然とした「布積み」で仕上げられとる。

ここで一丁「石積み」の勉強ばしとこう・・・・
 石積みは、その積み方で野面積み(のづら)、布積み(ぬの)、あいかた積みの三種類に分けられると。

 
野面積みいうとは、山出しの石や、 海のテーブルサンゴ、畑などから出た石ば、加工せんままただ積みあげるもので、古いグスクや御嶽(ウタキ・神さんば祀った聖地)、離島の民家などに見られる。

 
布積みは、石ば正方形や長方形に加工して積む方法。12世紀頃から15世紀にかけて築かれたグスクや、中城城跡の表門、首里城の歓会門などに見るられる。

 また、沖縄独特の
あいかた積みは、石の自然の形ば利用しながら、互いに噛み合うように削りあわせて積むやり方。中まで石が組まれとって、雨水が抜けやすく崩れにくいとが特徴の、最も進んだ石積みの手法ていわれとる。
 その代表的なもんが座喜味城、中城ていうことで知られとるっタイ。

 また、城壁は自然の地形に合わせてカーブさせ、丸味ば持たせてあってその曲線美がなんともいえん。
しかも、軟らかい赤土地盤の崩落ば防ぐ必要性から、より複雑な形状になっとって、上からみると、城全体がまるでヒトデのような形になっとってとても面白か。

 城内は南側(二の郭)と北側(一の郭=本丸に相当)の二つの郭が連なっとって、これば
連郭式(れんかくしき)ていうとゲナ。それぞれの郭に拱門(きょうもん)て呼ばれるアーチ形の門がひとつずつある。ただし、城外への出入口は、唯一、二の郭の拱門だけ。

 切石で組んだアーチ型の石門が美しか。 後に護佐丸は中城城に移り三の郭や裏門ば築造し、築城家としても名ば上げとっちゃが、 特にアーチ型の石門は、この城が最初に採用した工法ゲナ。

 アーチ門の表と裏側にはめ込まれとる
クサビ石は、このグスクでしか見られんとゲナ。現存する沖縄の城門中最古のものらしか。 て、これは案内板に書いてあった。

 城として防御の面から考えた場合、井戸がひとつも無かったり、この城の構造には疑問が多か。これは、北山ば滅ぼし てその脅威が無くなった後ていうことば考えると、防御的城塞というよりはむしろシンボル的な城、港に近い場所で貿易に有利な、貿易管理センターのごたあ役目ばしとったっちゃなかろうか。

 実際、この城跡から15世紀中頃の中国製陶磁器が多く出土しとるげなケン、護佐丸が盛んに海外貿易ば展開したことは間違いなか。護佐丸が中城(なかグスク)に行った後も、この城は座喜味按司の居城として使われとったらしい。

 第二次大戦中は日本軍の砲台になっとったケン、沖縄戦の時近くに上陸した米軍は、その日のうちにこの城跡ば占領してクサ、九州からの特攻機に備えるレーダー基地ば慌てて作ったゲナ。

 戦後も米軍が通信基地として使い、立入禁止やったバッテン、日本に 返還されてから城が再建された。
 2000年11月、首里城跡などと共に
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産に登録された。

上から、正面のアーチ門。二の郭。主郭へのアーチ門。右は複雑な形の城壁。航空写真ではヒトデのごと見える。ほんとは危なかケン、上がったらいかんとバッテン、こそーっと石垣に登って撮ってきた。複雑な曲線美。

 城造りに狩り出された人夫は、読谷山(ゆんたんざ)の近くのもんばかりではなかった。喜界島、奄美大島、与論島、沖永良部島や、慶良間の島々からも徴発されたらしか。護佐丸が北山ば征圧した威信で、強制したっちゃろうバッテン、こうした島々には、泣く子供に「護佐丸がちゅうんどう」(護佐丸が来るぞ)いうて、泣き止ませたていう言い伝えまで残っとるぐらいやケン、かなり強引にやったとやろう。

 場所・沖縄・読谷村(よみたんそん)。那覇から国道58号線ば、浦添市・宜野湾市(ぎのわん)・北谷町(ちゃたん)・嘉手納町(かでな)て通過し約25キロほど北上する。読谷村に入ったら左へ案内板がある。      取材日 2008.01.22

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