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もちろん矢部まで行くつもりやったケン「矢部線」

矢部線は、終戦直後の昭和20年(1945)12月26日に、鹿児島本線の羽犬塚駅(福岡県筑後市)から
黒木町までの19.7kmば結んで開業した。
なんと終戦から4ヶ月目で開業ていう早業。
日本の鉄道では終戦後初めて開通した記念すべき路線やった。
矢部線の目的は、戦後の復興に必要な木材ば矢部から運び出すこと。
そやケン、矢部村まで延長する計画やったし、そやケン、名前も矢部線やったとタイ。
 しかも、矢部から鯛生金山ば経由して、宮原線の小国まで繋ぐ夢もあったらしかケン、凄か。

ちょっと待って

 矢部線のでける前は、ほぼ同んじルートば、明治36年に開業した軽便鉄道が走りよったらしか。この軽便鉄道は南筑鉄道いうて、羽犬塚〜山内で営業ば開始しとる。その後山内〜黒木ば開業しとった黒木軌道いうとば合併して、羽犬塚〜黒木の路線ば運行しよったとゲナ。この路盤があったケン、矢部線はたったの4ヶ月で走らせることがでけたとタイ。

 県境ば越えて小国まで走ろうかていう壮大な計画も、実現せんまま矢部線は赤字路線になってクサ、国鉄再建法の第1次特定地方交通線に指定され、昭和60年にとっとと廃止されてしもうた。

 赤字になるたぁ当たりまえ。人間は並行して走るバスのほうが便利やし、山ん中から伐りだした材木もトラックで運ぶごとなったけんタイ。
廃止後は全線がバスに転換され、廃線跡はバイパスとして利用されるごとなったていう訳よ

 始発は羽犬塚駅
 ちっご(筑後)のもんは「はいぬづか」なんては云わん。「はいんつか」タイ。

 矢部線は「はいんつか駅」の「0番ホーム」から発車しよった。しばらく鹿児島本線と併走して左にカーブ切って東ば向いて走った。

 そのホームやったとこは、もう新幹線工事で跡形ものうなった。

 
新幹線工事中の羽犬塚駅から船小屋方向。いちばん右が鹿児島本線の上り線路。 

 なんで羽犬塚なんて云うかていえば、

 安政六年(1777)の「筑後志」に
、むかしから羽犬塚には「両翼ノ犬隠レ住ンデ、往来ノ人馬ヲ害ス。秀吉公九州進軍ノ折、狩シテコレヲ殺シ、此所ニ埋メテ石碑ヲ建テ羽犬塚ト号ス。後年民家ヲ建テ駅所トナル」て、チャーンと書いてある。

 羽の生えた犬ねぇ。そげな犬がほんなことい居ったっちゃろうか ?

 
筑後市のマスコットやケン、市役所の前にも銅像がある。

 秀吉と、この犬との出会いには、いろんな説があって「筑後志」にあるごと、暴犬やつたとか、秀吉の愛犬やったとか・・・

 だぁれも見たもんな居らんちゃケン、ほんなことぁ、もう分からんバッテン、犬の墓は羽犬塚小学校の側の宗岳寺にあるケン、これがほんとの「羽犬塚」やろう。

 「羽が生えた犬」いうとも、「羽が生えたごと敏捷な犬」やったて、いうとなら納得できる。

 それで羽犬塚の駅前には「羽の生えた犬の像」があったとバッテン、新幹線工事でどこさいか行ってしもうた。

 市役所で聞いたら「サザンクス筑後の公園に移設した」て、いうことやった。

 物好きにもわざわざその犬に会いにいったら、公園の中で飛びよった。
写真左。


      羽の生えた犬の像は、羽犬塚小の門前(上)やら、
                 山の井交差点(右)にもある。

 羽犬塚駅ば南向いて発車した矢部線は、しばらくして東にカーブした。

 当時は田圃やったとが、いまは住宅地に変わってしもうとるバッテン、その中に路線の跡は生活道路としてシッカリ残っとった。


 
うしろに新幹線の高架(工事中)が見える。
 

 花宗駅跡
 矢部線の開通から13年がたった昭和33年(1958年)2月1日に、住民の請願ば受けて開業した駅で、単式ホーム1面1線、はじめから無人駅やった。

 国道209号線の陸橋が汽車の巾しかなかケン、この立体交差しとるあたりに駅はあったとやろう。

 さあ、何で花宗駅か ?  近くに花宗川が流れとるけんタイ。何で花宗川 ?

 天正15年(1587)、九州ば平定した豊臣秀吉は、柳川藩主立花宗茂に下妻三潴郡の一部ば与えた。

 宗茂はこの地域の灌漑用水確保ば目的として、川
の改修に着手したとバッテン、関ヶ原で西軍に加担したため、領地は取り上げられ、代わって田中吉政が藩主になって来た。

 吉政も宗茂の事業ば引き継ぎ、2代藩主忠政が慶長19年(1610)に灌漑用の川ば完成させた。

 忠政は、この川の最初の着工者・立
花宗茂に敬意ば表して、川の名ば花宗川てしたていう訳やった。

 いまこのあたりば潤しとる花宗川は、八女市津江(八女人形会館のあるところ)で矢部川から花宗堰で取水された人工河川タイ。

 花宗川は八女と筑後市内の田ば潤し、大川で筑後川に合流する。

上・現在の花宗堰。右に流れるとが矢部川で、左が取水された花宗川。大きな木の所に花宗神社いうとがあるバッテン、これは川とは関係なし。ただ花宗堰のところに勧請したケン花宗神社。

右・多分ここが駅やろうて思われるあたりの、畑の中に
「工」ていう字が見えるコンクリの杭が残っとった。

 鵜池(うのいけ)駅
 八女市の西の端にあった駅で、矢部線の開通と同時に開業した。

 当初は駅員さんもおんなったげなバッテン、昭和37年(1962年)に無人駅にされ駅舎も撤去された。

 
今は路線跡の上ば九州自動車道が、オーバークロスしとる。

 このあたり、線路ば敷いたときは、田圃ばっかりやったろうケン、線路も一直線やった。
 それが、そのまんまバイパスに転用されとるケン、はるか向こうの見えんごと、真っ直ぐな道が続いとる。

 場所が分からんやったけど次の
蒲原駅(かまはら)は、花宗駅・今古賀駅と同時に開業した小さな駅で、初めから駅舎もなか無人駅やったゲナ。

 東海道本線の蒲原(かんばら)駅と字はいっしょバッテン、読みが違うた。

 筑後福島駅跡
 
八女市本町にあった。矢部線の開通と同時に開業しとる。八女市の中心駅やったケン、矢部線でいちばん乗降客の多かったらしか。

 廃止まで駅舎は残っとって、国鉄から委託された駅員さんがおんなったていう。

 
廃止後は、この駅だけが公園として整備され、ホームの跡も残された。

 
左・桜並木もそのままに残されたホームの跡。
上・公園内の倉庫に駅名標が掲げられとった。

 道路に面した歩道は、400mあまり藤棚のトンネルで、毎年、藤の花がぶら下がって咲く。市民のよか散歩道になっとる。

 この藤棚の柱には、矢部線が廃止されたとき撤去された線路が使われとるとゲナ。昔ば語りかけるリサイクルていう訳。

 八女伝統工芸館
 
公園の中には、昭和61年11月にオープンした、八女伝統工芸館ていうとがあってクサ、仏壇、提灯、石灯ろう、手すき和紙など八女が誇る伝統工芸品が展示即売されとる。

 
高さ10.5mの巨大な石灯ろうやら、高さ6.5mの大きな金でてけた仏壇、高さ3メートルのジャンボ提灯などスケールの大きさに圧倒される。

 
また、敷地内には八女民俗資料館ていうともあって、八女福島燈籠人形屋台の常設展示もある。

 建物の中に線路のあるとにはたまがった。それがまた、ご丁寧にもガラス窓越しに公園の外にまで続いとるちゅうケン、その凝りようも並大抵のもんやなか。

 工芸館の中ば線路が突き抜けとるとは、実際に矢部線かここば走りよったいう事実ば残そうていう思いが形になったとやろう。






 下・民俗資料館の八女福島燈籠人形屋台。

 今古賀駅跡
 花宗駅・蒲原駅と同時に開業したこまぁーんか駅で、初めから駅舎もなか無人駅やった。

 体育館の前に広場があったケン、多分ここと思うけど、ひょっとすれば、もうちょっと先の工場あたりやったとかも知れん。

 バイバスのこのあたりは、直線で見通しがよかケン、車ではついついスピードば出しとうなる。
 そればちゃーんと知っとってクサ、いつもタチの悪か( ? )警察が、隠れて取り締りばしよる。

 上妻駅跡
 このあたりに「上妻駅」いうとがあった筈バッテン、痕跡が残っとらん。団地のあたりかな。

 この駅も矢部線の開通とともに開業した駅で、当初は駅員さんもおんなったげなバッテン、昭和46年(1971)に無人駅になって駅舎も撤去されとる。

 
上妻郡(かみつまのこおり)いうとはかつて筑後国に存在しとった郡の名前やった。

 明治22年4月1日の町村制施行で(福島町・長峰村・三河村・川崎村・忠見村・
上妻村・八幡村・北川内村・岡山村・横山村 )が合併して、いまの八女市になつた。

 田圃とビニールハウスだけが広がる一直線の道。汽車は通らず、今では県道96号線として車ばっかりが飛ばしよる。

 標識のたっとったケン見たら
「バルビゾンの道」て書いてあった。こらまたなしかいな。
 バルビゾンいうたら、画家ばっかりが集まっとるフランスの有名な村やろうもん。

 むかしフランスに留学しとった八女出身の
坂本繁二郎が帰ってきて、自分の故郷ば眺めて云いなったゲナ。「おお、ここは東洋のバルビゾンである」 それでこの通りの名になったとタイ。 

 山内駅跡 矢部線の開通とともに開業した駅で、当初は駅員さんがおったげなバッテン、昭和37年(1962)に委託
        駅になり、昭和46年(1971)に無人駅となった。写真の八女市東公民館の所に駅があった。

 大籠(おおごもり)の「やせ仏」
 近くの大籠(おおごもり)に正八幡宮ていう神社のあってクサ、その境内の横手に「やせ仏」ていうとば祀ったお堂がある。神社の建物より小さかバッテン、新しか。

 その仏像、「やせ仏」ていうだけあって、釈迦苦行像のごと痩せとんなる。ところが、じーっと見よったら、なんかキリストのようにも見えてくる。
なんとも不思議な仏像やが、これには、こんな話が残っとると。

 天正14年に島津が岩屋城ば攻めたとき、岩屋城の前衛ば務めとって
筑紫広門ていう武将がおった。頑張ったとバッテン、岩屋城は落ち、広門は降伏して大善寺に幽閉された。

 ところが島津征伐に来た秀吉の軍に加えられ、島津追討に功があったケン、筑後上妻郡山下城に一万八千石の領地ば貰い、このあたりの領主として生き残ることができたとゲナ。

 その広門、 長男(茂成)と肥後の大名・有馬の娘ば結婚させようとしたとバッテン「息子が信者にならな娘はやらん」ていわれ、息子ともども、キリシタンになったらしか。

 結局、嫁入りしてきた有馬の娘が、母親から持たされた護持仏が、この釈迦にカムフラージュされたキリスト像やったっちゃなかろうか・・ていう話タイ。謎の仏像は地元で大事にされとんなる。

 自ら人柱にたった庄屋
 山内の山ノ井公園には「中島内蔵助翁の碑」ていうとかが立っとる。こん人は駅長の家内の母方のご先祖さんタイ。

 江戸時代、吉田村の大庄屋やったこの内蔵助(くらのすけ)さんはクサ、山ノ井川の井堰が洪水のたんびに決壊して、そのたんびに農作物が被害ば受けるもんやケン、困っとんなった。

 住民の集まりで「水神の怒りば静めるためには人柱ばたてないかんバイ」いうことになって、草履の緒が左結びのもんば人柱にたてることに決まった。

 当日、内蔵助さんは、自ら左結びの草履ばはいて人柱に選ばれ、濁流うずまく堰の一角に身ば沈めなったとゲナ。

 以後堰が決壊することはいっぺんもなく、内蔵助さんの功績ば賛えて、山ノ井水系では吉田村が1番に水ば引いて田植するごとなったとゲナ。

 いまも毎年、内蔵助さんの命日には、地区住民による慰霊祭が続けられとるていう。

 山内ば出て国道442号線と交叉したあとは、星野川の左岸ば走りよった。

 いま、路線跡は草ぼうぼうで「ここば走りょったっちゃなかろうか」ていう僅かばかりの痕跡が残るだけ。

 



 国道と交叉してから800mほどで、県道52号線ば横切って右岸に変わる。(写真左)
 またしても路線跡はヤブの中。(写真上)

 

 ヤブの中でトンネルひとつくぐって、宮原の集落に出てきた線路跡は、陸橋で集落の道を股ごして星野川に突き当たる。

 集落には築堤と、陸橋のコンクリートがしっかりと残っとった。

 

 星野川ば渡る
 星野川といっしょに並んで走っとる県道52号ば、矢部線はいっしょに鉄橋で越したとやろう、宮原集落側には築堤と橋脚が残っとった。

 

 北川内駅跡
 北川内駅は、矢部線の開通とともに開業した駅で、上陽町唯一の駅やった。
 しかし、この駅も昭和37年(1962)に委託化され、昭和46年(1971)には無人駅になった。

 左手の「地域福祉センター」あたりが駅やった。

 当時、駅前広場には
「大伴部博麻呂出身の地」て大きゅう書いちゃったゲナ。

  大伴部博麻呂とは ?

 大伴部博麻呂(おおともべの はかまろ)いうたら、西暦661年、朝鮮百済国救援軍に上陽(かみつやめ)から軍丁(いくさよぽろ)として出兵しなったとやが、戦いに負けて捕虜になっとんなるとタイ。

 バッテン、むこうでで唐の日本攻略の企てば知ったもんやケン、自分の身体ば奴隷として売って金ばつくり、同僚ば知らせに帰国させたていう愛国の人やった。

 本人は30年も経って、持統天皇の4年(690)にやっと帰った来なったとゲナ。

「売身輸忠・尊朝愛国」の忠節ば尽くしてくれた、いうて、天皇から恩賞ばもらいなった。

 この国難ば救うた人がクサ、北川内の生まれやったゲナ。そやけん、北川内公園のいちばん高っかところに碑が建っとるていう訳。
 もう、地元のもんもよう知らん。

 駅長と同じ「伴」が入っとるケン、なんか親しみの湧いてクサ、長か公園の坂ば登って写真撮しに行ってきた。

 北川内トンネル
 
矢部線はここで、築堤ば登って北川内トンネルに入り、いまの八女上陽GCの下ば通っとった。

 北川内側の入口は、線路の跡に目的不明の水槽があり、トンネルの中は扉でふさがれとった。

 多分酒かワインの貯蔵庫にでも利用しとるっちゃろう。

 打越側の出口は草が茂って寄りつきもされん。

 黒木へ抜けとる県道70号線は、このトンネルの上ば越していく。
  

 40年前はSLが走りよった
 県道70号線の峠からは、田圃と集落の中に路線跡がはっきりと確認でけた。

 奥が打越から北河内方面。

 中原トンネル
 トンネルの北側入口には「隧道古酒・須々許里」ていう看板と柵があって、とうせんばっちょしとる。

 
須々許里(すすこり)いうとは、もともとは古事記に登場する酒造りの名人の名前バッテン、いまは、このトンネル内で5年間長期低温熟成させた純米古酒の銘柄のこと。

 廃線のトンネル内は光が全く入らず、夏でも18度以下で貯蔵できるケン、酒はまろやかで、香りも
上々ゲナ。いつも約2万本が眠っとるていう。

 黒木側の入口にも柵がしてあって、「古久蔵」ていう看板が見えた。

 古久蔵(こきゅうぐら)いうとは、福岡県特産焼酎組合の会員9社が共同で製造・販売しとる本格焼酎の銘柄タイ。

 高さ4.8m、巾4m、全長321mのトンネル内ば、291m使うて5年間熟成しとるとが自慢の人気商品タイ。

 その9社いうとは、杷木のゑびす酒造・三潴の杜の蔵・粕屋町の光酒造・筑前町の天盃・筑後市の西吉田酒造・八女の喜多屋・黒木の後藤酒造場・大刀洗の研醸・朝倉の篠崎。
 どんくらい旨かかいっぺん飲んでみんしゃい。

 黒木(くろぎ)駅跡
 矢部線の終着駅で、黒木町の大字今にあった。駅所在地は黒木町の中心からすると東端にあたる。

 廃止までちゃんと駅舎があって委託の駅員さんも配置されとったゲナ。

 いま、駅やったとこは道路になっとって、この横断歩道の白線のあたりに駅舎があった。角の家の横の歩道が駅の階段やったらしか。

 駅とおぼしき場所から東ば見ると、床屋さんの先にトイレが見えとるバッテン、昔もここに駅の便所があったゲナ。

 バッテン、こっから先へ矢部線の線路が延びることはついになかった。

 矢部線ば走った蒸気機関車は、C11型で通称「シーのチョンチョン」いう愛称やった。

 矢部線には機関区がなかったケン、はるばる熊本機関区から来とったていう。

 いま黒木町の終点やった場所の近くに、一両保存されとるバッテン、上屋だけ作ってほったらかされとるていうたほうがよかかも知れん。

 駅名標やらは、過去の記憶と一緒に投げ捨てられとった。

 黒木の手前は北河内て書いちゃるバッテン、次の駅はなかけん空欄になっとる。

 ところで、なし、黒木ていうとかバッテン、
 黒木の地名は、南北朝時代に南朝方として活躍した猫尾城主・
黒木大蔵大輔 源助能(みなもとのすけよし)の姓ばとったて伝えられとる。

 その黒木町も2010年には、八女市に編入されるとが決まっとって、無うなってしまう。

下・黒木の町並み。下に矢部川と南仙橋が見える。

 黒木町のなかは、昔から暴れ川として有名な一級河川の「矢部川」が貫流しとる。

 
南仙橋は、この矢部川に掛かる橋で、昭和29年(1954)に完成した。木製のためすぐ古うなる。
 そのたびになんとかそそくって、見るからに危なつかしかバッテン、ほぼ半世紀頑張ってきた。

 今では黒木町ば代表する景観のひとつになっとるとタイ。平成14年、町指定有形文化財になった。

 黒木町出身の女優、
黒木瞳さんの家もこの近くにある。   

 木屋の木造聖観音立像
 黒木町から少うし東に木屋(こや)ていう集落がある。そこの小高い丘の上に、県の指定文化財になっとる木造の古か観音像が祀っちゃる。

 榧(かや)の寄せ木造りで、身の丈192cmの堂々たるもん。記録によると弘安10年(1287)いうケン、元寇の頃作られとる。

 この像は、黒木城二代目の城主
黒木四郎ばかたどって等身大にでけとるとゲナ。それにはこげな話が残る。

 
猫尾城(黒木城)の初代城主・黒木大蔵大輔源助能(みなもとのすけよし)は笛の名手やったらしく、京都に上ったとき宴(うたげ)ば成功させたケン、朝廷からご褒美にいうて「調(しらべ)」の姓と、小侍従の待宵(まちよい)いう女ば貰うた。

 その待宵はすぐに黒木四郎ば産んだとバッテン、こら誰の子かは分からん。昔の権力者は、側女に胎ませといて、ポイッてすぐ誰かにやりよった。

 助能が待宵と四郎ば連れて帰ってきたもんやケン、正妻の春日局は腹かいた。当たり前たい。出張して女連れ子連れで帰ってきたとやもん。

 春日局は三人ば恨みながら、とうとう城の下の「剣ケ渕」で入水してしもうた。

 そのあと、四郎は成長して二代目の城主になったとバッテン、春日局の怨霊は一族に祟りつづけて、四郎は18歳の若さで死んでしまう。

 このことばなんで知ったとか、京都の徳大寺実定卿(さねさだ)いうとが、この木像ば造らせて黒木に送ってきたとゲナ。
 ということは、この実定ていう公家が、四郎のホントの親父やったていうことになる。

 なしそげなことまで分かるとかていえば、像の胎内に「黒木四郎殿御影(ごえい)」いう記録の入っとって、修理の時に見つかったけんタイ。

 津江神社の大樟(くす)
 平安末期、源助能(すけよし)は、守護職の大友に疑いばかけられ、豊後の津江山浦に閉じ込められたことがある。

  助能は「この無実の疑いがはれて黒木に帰城できたら、津江宮ば黒木の宋廟としてお祀りします」て願ばかけたところが、 やがて疑いがとけて帰ってくることがでけた。

 そやけん津江宮の神霊ば、ここに移して建立したとがこの黒木の津江神社タイ。

そんときに植えたていうこのクスの木、幹周り約12m、樹高約40m、樹齢はなんと830年ゲナ。

 グリーピア八女
 社会保険庁は、1980年から1988年にかけ、積み立てられた厚生年金ば使うて「グリーンピア」ていう保養施設ば全国に13カ所作った。投じた資金は建設費だけで3,781億円。

 殿様商売のグリーンピアはその後、13カ所すべてが経営に行き詰まって、それば整理するための特殊法人「年金資金運用基金」に移され、タダ同然で全部売却された。

 その売却総額は約48億円。その差額は損失金で約3,730億円。政治の責任はどうなっとうと ?

 くつろぎの森グリーピア八女も、そのひとつで、黒木町が安う買収してクサ、経営ば民間に委託し2005年に再オープンしとうとタイ。

 民間が経営すれば、やっぱあ違う。いろいろ知恵ば絞って頑張りよんなる。

 そげなこたぁ知らんで、モミジだけは、とつけむのう、きれいかった。

山中渓谷
 グリーンピア八女から車で5分、徒歩で20分のところに通称「もみじ谷」て呼ばれとる「山中渓谷」がある。

 
重箱岩やら絶壁が続く崖、流水がつくりあげた岩床、渓谷にあるいくつかの小さな滝もよかバッテン、なんていうたっちゃモミジが美しか。

 その形が面白か重箱岩は、250万年前に溶岩が冷えて誕生したていわれ町指定文化財。

 一帯はテーマ公園として整備され、駐車場・トイレ・遊歩道が作られとる。

ちょっと待って

 最後は矢部線のレポートからは外れてしもうてクサ、黒木町の紹介になってしもうたごたるバッテン、そのついでに「黒木の大ふじ」に触れとかないかん。国道442号線そばにある素盞鳴(すさのう)神社の境内に黒木の大藤はある。

 応永2年(1395)征西将軍・
良成親王(よしなり)が植えなったて伝えられ、その後、天正12年(1584)、 大友軍の兵火で焼かれたり、文政4年(1821)の正月には黒木町の大火にあうなどしとるとバッテン、 根性もんたいね、枯れもせんで樹齢600年ゲナ。境内いっぱいに広がるその大きさは東西50m、南北80m、藤棚面積は2,700平方メートル。

 九州に名物ふじていうとは多かもんバッテン、黒木の大ふじは見とかな話にならんバイ。国指定の天然記念物やもん。

矢部線の駅
 羽犬塚駅(0.0km) - 花宗駅(1.5km) - 鵜池駅(3.9km) - 蒲原駅(5.1km) - 筑後福島駅(6.8km) -
今古賀駅(8.0km) - 上妻駅(9.3km) - 山内駅(11.7km) - 北川内駅(15.2km) - 黒木駅(19.7km)
でけて60年。やめて20年。40年間「ちっご」に親しまれとった鉄道も、もう記憶の外。 次回は「宮原線跡」

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