地図の下(南)が耳納山脈。左(西)から高良山、耳納山、発心山、と続き東の端ば鷹取山が締めくくっとる。
さきに見てきた大石堰の工事は、寛文6年(1666)から7年かけて、巨瀬川(こせがわ)と同じ支流の隈上川(くまのがみがわ)に余った水ば融通させる工事も完成させ、これにより筑後川と支流の巨瀬川・隈上川が大石用水ば通じてつながり、効率的な水の運用が図られるごとなった。
これによって500ヘクタールの農地が稔りの恩恵に浴するごとなった。
今回はその巨瀬川が町の真ん中ば流れとる田主丸(たぬしまる)の話ばしょう。
河童伝説ば持っとる町は多かバッテン、ここ田主丸も町全体が河童で埋まっとって、河童ば町おこしのメインに据え「河童等特別水棲生物に関する保護条例」ていうとまで町議会で作っとんなる珍しか町タイ。
田主丸の河童の由来にはふたぁつの説があって、ひとつは、中国大陸出身の九千坊(くぜんぼう)いう河童が、家来ば引き連れて、熊本県八代市の球磨川に移り住んだとバッテンが、肥後藩主加藤清正から追い出されて、筑後川に逃げ込んだとする説。
もうひとつは、壇ノ浦の合戦で敗けた平家一族が筑後川流域に逃れ、その怨念が河童に化けたていう。いまでも平清盛の化身ていわれとる河童は、巨瀬入道としてチャンと祀られとんなる。
なしこげん河童がもてるとか。
筑後川も巨瀬川も大変な暴れ川で、一夜にして川底の流れば変わることから、一夜川ていう異名まて持っとった。
大洪水に苦しめられとった人々は、これば神業、神の祟と考え、そこで神に対する深い信仰が生まれ、水神信仰になったていうことがいえる。
その後、世の中が次第に複雑化なって、水神の信仰も多様化し、河童の信仰も生まれ育ったに違いなか。
そこで田主丸町には、荒五郎大明神ばはじめとするさまざまな河童の信仰が生まれ、各所で祀るようになった。
上半身は裸で、フンドシばつけて、頭の上にはへこみ(頭の皿)がある九千坊河童や、えんどう河童など大洪水ば伏せる神として信仰されてきた訳タイ。
田主丸町には、巨瀬川とひばり川ば中心にして、大勢の河童がおる。全部見て回ると3〜5キロは歩かないかん。JR田主丸駅の河童センターで「かっぱめぐりマップ」ばもろうて歩くともよかバッテン、今回は「ふる里の蒸気機関車」60回記念やケン、駅長についてきんしゃい。特別に案内してやろう。


もともと田主丸は、慶長19年(1614)に菊池丹後入道いう大庄屋が、やぶば開墾して長さ125間の町筋ば作ったことに始まる。
菊池丹後入道いうたら、豊後の豪族やったとバッテン、柚木の熊度山の境界争いやら柳河立花藩との国境争いに巻き込まれて、イヤになったもんやケン、家ば捨てて放浪の旅に出てクサ、新天地ば求めた旅路の果てに、たどり着いたとがこの田主丸やった。
争いのなかこの地で刀ば捨てて鍬持って、大庄屋として、土に生きる男として生まれ変わろうて決意した入道は、それまでに蓄えとった知識と技術ば使うてこの町筋ば完成させたていう。
田舎で生まれ変わった入道の往生観やった「我極楽世界楽生」「楽生(たのしく うまるる)」が「田主丸(たのしまる)」の由来になったていう。
正式には「たぬしまる」バッテン、土地のもんは今でも「たのしまる」ていいよる。ようでけとる話バッテン、駅長のダジャレと五十歩百歩。かなり苦しか。 写真・菊池丹後の墓所
上・鷹取山には地元の領主星野鎮種(ほしのしげたね)が築城した鷹取城があって筑後平野にニラミばきかしとった。
右・調音の滝は高さが27m、幅9mで、崖の上から「イロハ」て文字ば描くごと落下するケン、別名「いろは滝」
天保年間、久留米藩主有馬頼永の奥方・晴雲院が立ち寄り、水が天然のメロディーば奏でるごと聞こえたケン「音の調べ」すなわち「調音の滝」て命名しなった。
こげな話もある。
むかし怠け者の弥五郎ていう河童がおった。巨瀬川の水車小屋のところにある川樋(木製の水路)の上で、仲間の河童とはいつもはずれて一日中昼寝ば楽しんどった。
そやケン、みんなから「樋の上の弥五郎」と呼ばれよった。元来、河童の昼寝には近づくないう言い伝えがあって、昼寝しているところに人間が近づくと、河童の神通力で頭痛がしたり高熱が出たりするもんやケン、弥五郎のおる川樋には誰も近づかんやった。
弥五郎がなぜいつも昼寝ばっかりしとるかていうと、弥五郎はとても助平の河童でクサ、毎晩毎晩遅うまで遊びまわっとるけんタイ。
ある真夏の暑か日、こどもたちが川下で水遊びばしとったら、どけんしたことかいね、弥五郎が流されてきた。
「弥五郎さんもし、どげんしんしゃったとぉ」
「昨夜なぁ。夜遊びしすぎで疲れたとやろう、眠り込んどる間に頭の上の皿の水が乾いてしもうた」
「はぁ、それで神通力の無うなったとね」
「そうタイ。それで河童の川流れタイ。
このことから「河童の川流れ」ていう諺がはじまったとゲナ。
はぁ ? 河童の川流れていう意味が分からん ?
河童、つまり、水に対するその道のプロでも、川に流される、初歩的なミスを犯すことがある、ていうこっタイ。
似たことわざに「猿も木から落ちる」『弘法も筆の誤まり」がある。
左・田主丸駅のホーム。駅舎は両面が河童の顔になっとる。
下左・初代駅舎の駅名標と開設当時の写真が飾られとる。
下・二階が河童資料館になっとって、階段から河童だらけ。
かつて筑後川は、一夜川とか千歳川とか勝手にいわれとって、これっという正式な呼び名がなかった。
しかも川は国境やったケン、名前ば大事タイ。筑前国と筑後国の間ば流れる筑後川も、両国の間ば流れるケン、筑間川とも呼ばれとった。
「これじゃいかん」いうことで幕府が主導して川の名前ば決める会議があった
寛永14年(1637)の春、所は田主丸法林寺の一室。幕府派遣の代官ば中心に左右対座しとる筑前筑後の大使やら従者たち。
この緊張した静寂ば破って筑前側の藩役人の声がまず飛び出した。
「そもそも筑後川ていうもんは・・・」
それに間髪ば入れず、オーム返ししたとが菊池丹後の声やった。
「そもそも筑前側が筑後川と云んさるからには、河名の詮議はもう必要なかじゃんの」
この一言で問題は解決。代官から直ちに上申され、寛永15年4月吉日付の幕命によって正式に筑後川ていうことが決まった。
まずJR久大本線で田主丸駅に着いたら、イヤでも目に入るとが「お出迎え河童」
若っかねえちゃんたちは「キャーッ」いうて恥ずかしがる。それもそのはず、この河童は裸でしかもヘソもチンポも丸出し。河童やケン許せるけど、人間なら軽犯罪法違反タイ。
「キャーッ」いいながらもねえちゃんたちは興味津々、立ち去ろうとはせん。
田主丸駅の開業は昭和3年(1928)。それから約60年経った昭和55年(1990)に、古か駅舎ば改築する案が出された。
ただしデザインばしたとは、建築事務所でもなく、JR九州のデザイナー水戸岡鋭治氏でもなか。
駅からすぐの浮羽工業高校の生徒たちやった。
なしかいうたら、この駅の1日あたりの利用者約500人のうち、同高校生徒の利用比率が高かったけんタイ。
頼まれた生徒たちは、張り切って河童伝説ばなぞり、河童が寝そべっとる姿をイメージした。
河童の駅舎が完成したとは、2年後の1992年やった。駅の管理も、JRじゃのうて地元住民が交代でしとる。

田主丸にはいろんな河童やら伝説があるバッテン、まず九千坊(くぜんぼう)河童から紹介しょう。
九千坊いうとは全国に散らばっとる河童一族の総大将バッテン、こいつはどうも筑後川ばおもな棲家にしとるらしか。そしてあちこちの川ば別荘のごと使いよったていう。なしそげなことまで分かるとか。
全国にある水天宮の総本山が久留米市にあって、ここの祭神が安徳天皇と二位の尼。二位の尼いうたら、平清盛の奥方の時子、壇ノ浦でこまぁか安徳天皇ば抱いて海に飛び込みなった、あの、ばぁさんタイ。
安徳天皇が河童になって九千坊(巨瀬入道てもいう)で、二位の尼が生まれ変わったとが、尼御前カッパタイ。
この二人がときどき筑後川の中流まで散歩に出かけなるとげなバッテン、そのときには決まって筑後川は大荒れとなり、洪水ばおこすていわれとる。
それで親分河童の九千坊のもとに子分河童どもが集まってきて、ここいらには大勢河童がおるいう訳よ。
田主丸は筑後川に注いどる支流の巨瀬川やら、それからまた伸びとる水路やら、川樋(かわとい)がいっぱいやケン、彼らにとっては親分に気兼ねせんでよかし、非常に住みよかところらしか。
最近は川もずいぶんと汚れて来たせいか、彼らの人口密度も減ってきた。それでも田主丸に行けば河童の多さにびっくりこく。
JR九大本線・田主丸駅の駅舎は河童が頬杖ついとるし、町ば流れる川の欄干では必ず河童が遊んどる。
しばらく憎めん河童たちば見ちゃんしゃい。
楽太郎河童
左・河童が頬杖ついとるデザインの田主丸駅
下・駅前の楽太郎河童は「楽しく生きる」の象徴で柿やらブドウば抱えとる。
むかし、河童と相撲ばとった漁師がおった。
河童の子は可愛かバッテン、河童と相撲ばとると、後で熱が出て困ったていう。
でも、魚が取れんやったときには河童と相撲ばとると、次の日には魚が多く取れたていう。きっと、河童がまた、遊んでもらいたかケン、魚とりば手伝うたっちゃろう。
ある農夫が田植えばしよったら、それば河童が見とった。
河童は農夫のまねばしょうとしたっちゃが、牛の手綱に身体が巻きついてしまい、引きずられて泥だらけになってしもうた。
農夫が助けてやって「二度とこんな悪さばするなよ。手の骨でも折ったらどうするや」ていうたら、河童は「そんならいまのうちぃ、お礼に骨接ぎの術ば教えときまっしょう」いうて、接骨術ばおしえたゲナ。
左上・祈り河童。「なんば祈っとるとや」て聞いたら、旱魃にならんごとていうた。
左中・宇宙河童。橋の発射台からすぐにでも飛び出そうごとしとる。3・2・1。0。
左下・親子河童。洗濯場で母親河童のくびにしっかりしがみついとる子河童。
右上・かっぱ茶屋。築150年の民家ば改造して、河童巡りの休憩所がでけた。入り口で頑張っとって「まぁ酒ば飲めていう」
右下・灯火河童。なまずに乗って灯火ばかかげ、田主丸の町ば「明るうします」
田主丸町についても話さないかんやった。
明治29年(1889) 町村制施行により、竹野郡につぎの町村が発足した。田主丸町、水分村、川会村 、柴刈村、水縄村、竹野村、船越村。
昭和29年(1954) 田主丸町・水分村・筑陽村・水縄村・竹野村および船越村の一部が合併して新たに田主丸町が発足しとる。
そしてつい最近、平成17年(2005)に城島町,三潴町,北野町が一括して久留米市へ編入され、いまは久留米市田主丸町になった。
「どげんや久留米市になってよかったろう ? 」
「いんにゃ いっちょも ようはなか 水道料は高うなるし」
「なんかいっちょぐらい あろうもん よかことの」
「ウン警察の交通取締の厳しゅうなった」
「 ? 」
河童切傷創膏(かっぱきりきずそうこう)
久留米藩の田口長衛門が田主丸の見回りにきて、村島の関の川の中ほどまできたら、馬がとまって動かんごとなってしもうた。 お供のもんがとんきょう声で叫んだケン、長衛門が馬上から振り向いたら、河童が馬の尻尾ば引っ張りよった。長衛門は一刀のもと河童の手ば切り落としてしもうた。
見回りが終わった後、馬ば馬舎に入れようてしたところが、こらどうじゃろかい、河童の手が馬のしっぽば鷲づかみにしたままになっとった。しかも死臭がし始めとったもんやケン「こら困ったバイ」いうて、河童の手ばひっぱがし、煮立った湯に投げ込んでしもうた。
しばらくたつたら表が騒がしゅうなったケン、長衛門が表さい出てみたら、門前に河童たちが集まり、切った河童の手ば返せて云うてきた。
長衛門が「切れた手ば返せて云うバッテン、手がつながるもんか」ていうと、河童の頭目が「河童には河童切傷創 膏という名薬があるケン、切れた手でも、もとのごと立派によくなる」てうそぶいた。
長衛門は「もうつながらんていいよろうが、ほらこの通り手は煮えてしもうとる」河童たちはそれば聞いて、がっかりタイ。ぶすぶすいいながら消えてしもうた。
残った河童の頭目は「残念やねぇ、河童は水には千人力バッテン、お湯ではお茶引くしかなか」
筑後川の名付け親は
お出迎え河童
左・河童大明神(河童の神様が祀られとって)毎年8月8日には町内の「物好きカッパが集まってにぎやかな祭ばする。
上・巨瀬入道河童。田主丸中央公園にデェーンと頑張っとる。このへんの河童の親分。平清盛の化身云われとる。田主丸が植木やら果物の産地いうとは、この河童の神通力かも知れん。
左上・巨瀬川沿いにある河童の壁画。
左下・弥五郎息子河童。河童は相撲が好きで、しかも強うして負けたことがなか。
上・屁こぎ河童。少々イヤなことがあっても、屁こき飛ばす。
下・28河童。昭和28年の大水害のあとでけた。
「おまやぁ だまぁーってそこで屁ばこいたろう」
「いいえ そげな失礼なことはしまっせん」
「いんにゃ ウソこくな 臭かケン、すぐ分かる」
「ああバレたか、そのくらいのことは「屁のかっぱ」タイ」
「きさまぁ ウソいいよったら くらすぞ」
「屁こいたぐらいで ぐじゃぐじゃいうなら 今度はクソ喰らえ」
田主丸町