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| 其の十一 |
井堰のことばっかりに気ばとられて、橋ば無視しとったケン、今回は「大石堰」から「恵利堰」の |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 上・昭和橋の上から、穏やかな上流ば眺める。中央に「大石堰」が見える。左手の山は針目山・三日月山。 ![]() 息引神と仙崖さんの一字一石塔 起点の八女市山内から星野川沿いに筑後地方ば真横に進み、星野支所のとこで左折北上して合瀬耳納峠ば越える。 合所ダムの西ば下りうきは市の中千足で国道221号線ば突っ切って筑後川ば大石堰の400m下流で渡るとが昭和橋タイ。 そっからは杷木町ば抜け、宝珠山からは日田英彦山線沿いに北上。釈迦ガ岳の下ば斫石トンネルで、また峠越えばして彦山駅前ば通過。 添田町・大任町と英彦山川と一緒にまだ北上ば続け、匂金でヘイチク田川線ば踏みきって香春町まで一直線。 スピード違反して走ってきたけど、これが県道52号線タイ。 上・左岸(筑後側)からの昭和橋。緑色が初めからの橋で、白は後で作った人道橋。 ![]() ![]() この橋の下流には筑後川温泉があって、夏には屋形船が出て鵜飼などが行われとる。 そうタイ。橋の話やった。緑に塗装された橋はレトロ感が漂う橋やった。後から上流側に白かトラスの歩道橋もでけとったバッテン、なんせ道路の巾が狭うて大型車がすれ違うには橋の手前で離合待ちやった。 左・左岸上流(筑後側)からの昭和橋。対岸が筑前朝倉の杷木町。 ![]() 左・大型トラック同志では離合が困難。 ![]() ![]() 昭和橋の直ぐ傍(筑邦銀行杷木支店横)に息引神(いきびきのかみ)ていう神様が祀られとって、ここはもと杷木大明神の古宮のあった所らしか。 右上の上の上・喘息が治るていう「息引神」 ![]() |
原鶴温泉には23軒の旅館、ホテルがある。 なし原鶴かていうと、昔からこの川原に鶴がおったけんゲナ。 昭和28年6月の筑後川大水害で壊滅的な打撃を受けたもんやケン、建設省(国土交通省)は、幅約150メートル、長さ約1850メートルの原鶴放水路ば、事業費58億円かけて昭和55年に完成させ、通水ば開始した。 放水路が出けるまでは温泉街の近くまで水田が広がっとって、その趣きが残っとった。 ![]() 原鶴の鵜飼いは約1250年の伝統があって、いまでも3人の鵜匠が受け継いどる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 上・原鶴大橋から見た温泉の北側半分。後ろに見えとるとは、高山の中腹にある「平成ビューホテル」で、こっから筑後川の眺めはよか。
下・左岸から見た原鶴大橋と温泉街。橋の形式は 3径間連続鋼床版箱桁。素人が聞いたっちゃなんのことかさっぱり分からん。 そもそも原鶴で活躍しとる鵜は海で育った「ウミウ」で、体力があり、喉も大きかケン、一度に800gもの魚ば飲み込むことのできるゲナ。 橋の話が後になってしもうたバッテン、温泉街の中心に架かっとる橋が原鶴大橋で、でけたとは昭和34年3月。 右・はしの街灯にも鵜飼いがデザインされとって、夜に灯が入ると、橋全体がよか雰囲気になる。 |
![]() 筑後川の右岸ば国道386号線で下ってきて「道の駅原鶴」から約2kmで恵蘇八幡宮の下ばゆるぅく右カーブすると「恵蘇宿」ていう信号がある。 ![]() 恵蘇宿橋は昭和30年(1955)4月に完成した鋼連続ゲルバートラス橋で、河口からの距離52km。長さ284m、幅が6.7m。 ![]() 親柱の鉄骨に取り付けられとる建設当時の銘板は、もう腐りかかって「昭和30年、福岡県建造」ていう文字がかすかに読めた。 ![]() ![]() 突如として話は、641年に飛んでいく。1371年も昔の話タイ。 皇太子・中大兄皇子(即位して天智天皇)は、斉明天皇が亡くなって7日後の8月1日、遺骸ば朝倉橘広庭宮から御陵山の山腹に丸太の小屋ば作らせて移し、1日ば1ヵ月にかえて12日間、喪に服しなったとゲナ。 ![]() ![]() 日本軍がヒチャガチャ負けたもんやケン「今度は唐・新羅の連合軍が日本に押し寄せてくるバイ」ていう恐怖がうまれて、おおごとタイ。 ![]() 恵蘇八幡宮は、むかし郡中33ヵ所(上座郡)の総社として栄え、いまは朝倉町の総社となっとる。応神天皇、斉明天皇、天智天皇ば祭神として祀っとるとは、先に書いた歴史と次に書く因縁によるもの。 ![]() ![]() ![]() ![]() 右上・恵蘇八幡宮本殿。 ![]() 恵蘇八幡宮の裏山の一番高っかとこに、斉明天皇の陵墓て伝わる古墳がある。町の指定史跡「御陵山1・2号古墳」てなっとるバッテン、測量も含めていっぺんも調査したことがなかとゲナ。調査もせんでなんで史跡指定か ? わきゃあ分からん。 |
![]() ![]() ![]() ![]() 橋は昭和41年2月に完成した。 ![]() 桁橋ではスパン(橋脚の間隔)ばあまり長くできんケン、長か橋になると橋脚ば多く立てて、つないでいかないかん。 ![]() ![]() ![]() ![]() 橋は河口から50kmのところに位置しとる。昭和59年1月に補修したっきりやケン、もうたいがい草臥れてきとる印象が強か。 ![]() 平成6年(1994)の塗装やケン、もうかれこれ20年。あっちこっち剥げちょろけて、そろそろお色直しの近づいとリますバイ。 左・耳納連山バックに右岸の親柱。比較的新しか橋だけにデザインも洒落とる。 |
![]() ![]() ![]() 久留米から日田へ向かう国道210号線で田主丸町に入ると「栄町三丁目」の信号が迎えてくれる。信号越してすぐ左が前号で書いた鯉とりマーシャンの「鯉の巣支店」 ![]() ![]() 河口からの距離は45kmの地点にある。でけたとは昭和30年(1955)10月で、橋の長さ382m、巾が7mの鋼ゲルバー鈑桁橋。またまたゲルバーが出て来たバッテン、もう説明は要らんやろう。いまの橋は、昭和49年7月に補修したまんま。 なしこげな構造になっとるとか。むかしは真っ直ぐに渡りよったっちゃなかか。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 夏目漱石は、旧制第五高等学校(熊本)の教授ばしとった時に、何回も久留米に来たことがある。明治30年には親友の菅虎雄(すが とらお)ば訪ね、高良大社にお参りして、耳納連山ば草野の発心公園まで歩いとる。 「菜の花のはるかに黄なり筑後川」 上・左岸(田主丸側)の土手から見た両筑橋。手前の白い花は「ダイコンの花」 筑後川の春の代表的な景色というたら、菜の花の黄色い絨毯バッテン、近年、川沿いの土手に咲くダイコン花の大群落ば見るごとなった。 |
次回は筑後川橋・大城橋ば訪ねながら、南北朝時代にくりひろげられた筑後川一帯の大戦(おおいくさ) |
まだまだ半ばの筑後川。次回の |
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