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其の十一

    井堰のことばっかりに気ばとられて、橋ば無視しとったケン、今回は「大石堰」から「恵利堰」の
   間にある橋ば訪ねて回ります。なんせ筑後川として
35の橋があり、源流のハシからハシまでやったら
     数えられんしこある。、それぞれに歴史があり、人と文化の交流に大事な役目ば果たして来とる。
             そやケン、決してハシに置いて粗末に扱うたりはでけんとタイ。

  昭和橋は筑後川の河口から59kmのとこに架かっとる橋で、
 九州自動車道の杷木ICから中千足ば結ぶ道路にある。
  これば県道52号線・八女香春線ていう。

  橋は着工したとが昭和3年で、完成したとは昭和4年(1929)
 3月ていうケン、でけてもう83年も経っとった。
  なし過去形かていうたら、
平成22年6月19日に新しか後継ぎの
 橋が横にでけて、旧の橋はもう解体がはじまったけんタイ。

                                                     
      橋のすぐ川上にはむかし筑前から筑後へ渡った渡船場跡が残る。橋の向こうは筑後川温泉。


 橋の長さ135.75m。巾は6.6m。橋の形式は 鋼単純トラス。RC2径間連続T桁橋ていう。
 橋の専門用語は分かりにっかバッテン、鋼トラスいうとは、鉄鋼材ば三角に組み合わせた構造のこと。RCは鉄筋コンクリート。いまはRCより強かPC(ピアノ線ばねじ込んだプレストレス・コンクリート)が主になっとる。

 2径間いうとは真ん中に橋脚が1本たっとって、両側にスパンがふたつある形ば云うとる。T桁いうとは、橋桁の断面がT字形しとるけんタイ。だいたい古か時代の橋はこの形が多か。

 
橋が乗っとる道ば県道八女香春線、正確には「福岡県道52号八女香春線(ふくおかけんどう52ごう やめかわらせん)」ていう。八女と香春じゃイメージが結びつかんバッテン、これは福岡県の八女市から同県田川郡香春町の高野までの主要地方道で、距離が約90kmと福岡県の主要地方道では一番長か。

上・昭和橋の上から、穏やかな上流ば眺める。中央に「大石堰」が見える。左手の山は針目山・三日月山。

 息引神と仙崖さんの一字一石塔
 起点の八女市山内から星野川沿いに筑後地方ば真横に進み、星野支所のとこで左折北上して合瀬耳納峠ば越える。

 合所ダムの西ば下りうきは市の中千足で国道221号線ば突っ切って筑後川ば大石堰の400m下流で渡るとが
昭和橋タイ。

 そっからは杷木町ば抜け、宝珠山からは日田英彦山線沿いに北上。釈迦ガ岳の下ば斫石トンネルで、また峠越えばして彦山駅前ば通過。

 添田町・大任町と英彦山川と一緒にまだ北上ば続け、匂金でヘイチク田川線ば踏みきって香春町まで一直線。

 スピード違反して走ってきたけど、これが県道52号線タイ。

上・左岸(筑後側)からの昭和橋。緑色が初めからの橋で、白は後で作った人道橋。
下・橋の下から撮った橋脚と橋桁のありさま。橋脚ば繋いどるとがよう分かる。左半分コンクリが人道橋でレンガがもともとの昭和橋。右端に見える白かコンクリは新昭和橋の橋脚。

 この橋の下流には筑後川温泉があって、夏には屋形船が出て鵜飼などが行われとる。

 新しか橋の記念行事では、杷木中学校の生徒たちのブラスバンドやら、踊りなどが旧橋の上で披露され、永年頑張った旧橋ば慰労してやった。

 夜には旧橋上にたいまつや灯篭が灯され、名残ば惜しむかのごと旧橋は幻想的に浮かび上がった。

 朝倉県土整備事務所による旧橋の撤去工事はすでに始まっとって、2年後には撤去が完了する予定ゲナ。


右上・現役の昭和橋と左にくっついて工事中の新昭和橋。
右・完成し使用開始された新昭和橋。
下・解体が始まった昭和橋と歩道橋。

 そうタイ。橋の話やった。緑に塗装された橋はレトロ感が漂う橋やった。後から上流側に白かトラスの歩道橋もでけとったバッテン、なんせ道路の巾が狭うて大型車がすれ違うには橋の手前で離合待ちやった。

 歩道橋も狭うて歩行者と自転車が、ようぶっつかりよった。現時点では筑後川に架かる最古の橋やったケン、不便さはしかたがなかった。

左・左岸上流(筑後側)からの昭和橋。対岸が筑前朝倉の杷木町。
下左・筑前(杷木側)の親柱には完成年度が刻まれとる。
下右・80年間日本ば見てきた筑後側の親柱。昭和橋の文字は、欠けたりすり切れたりして、もう字がよう見えんごとなっとる。

左・大型トラック同志では離合が困難。
自転車同志の衝突事故が多かった人道。

 昭和橋の直ぐ傍(筑邦銀行杷木支店横)に息引神(いきびきのかみ)ていう神様が祀られとって、ここはもと杷木大明神の古宮のあった所らしか。

 いま祀られとんなる息引神いうとは、ご神木が藤の木で、このつるば引いて祈ると喘息が治るて言われてきた。

 息引神の横ば川に下りていく道があって、これは珍しいことに石畳の道。

 河原に下りると、そこは広場になっとって、なんでも旧幕府時代の渡船場道やったらしか。

 筑前と筑後の行き来は、ここの手こぎ船だけが頼みのツナやった。

 もちろん国境やケン、関所もあったに違いなか。

 小さな堂宇の前にポツンと石塔があって、これば「仙崖和尚の一字一石塔」ていう。

 一字一石塔(いちじ いっせき とう)とは、お経の文字ばひとつの石に一字づつ書き写し、塔の下に納めとるもんばいう。

 通常いろんな願いば込めて造立されとる。

 なし仙崖さんとが、こげなとこにあるとかは調べてみな分からん。

右上の上の上・喘息が治るていう「息引神」
上の上・そのすぐ横から川原に下りていく古か石畳の道がある。
上・下りたら昔渡し場やった広場があって、小さか堂宇ひとつ。
左・その前に「仙崖和尚の一字一石塔」がポツンとある。
下・昭和橋の歩行橋からは眼の下にある渡し場の跡。

 原鶴温泉には23軒の旅館、ホテルがある。

 アルカリ性の単純温泉で源泉温度は40〜60℃。 温泉はどっこもそうバッテン、ここも「美人の湯」ていわれとる。

 代表的な旅館としては、泰泉閣、パーレンス小野屋、六峰舘などがある。共同浴場は一軒だけ。共同浴場の道を挟んで目の前には「道の駅原鶴」がある。

 筑後川流域には沢山の温泉があって、旅人ば和ませてきた。上流の黒川温泉ばはじめとして、杖立温泉、天ケ瀬温泉、日田温泉、筑後川温泉、そして原鶴温泉と続く。

 そのなかでもむかしの博多のもんにとっては、温泉いうたら原鶴か二日市ていうぐらい、なじみのある温泉やった。 

 なし原鶴かていうと、昔からこの川原に鶴がおったけんゲナ。

 開湯伝説がふたつあって、そのひとつは、雪が降った日に、雪が積もらん場所があったことから温泉ば発見したていう説。もうひとつは、ある寒か日に傷ついた鶴がクサ、川のほとりに舞い降りて、河原で湯浴みばして飛び立って行ったケン、これば見たお百姓がクサ、川に入り温っか湯の湧きよるとば発見した。
 そこば堀って木枠をば入れて、ツルじゃのうて人間が湯浴みしだしたとが、原鶴温泉の始まりていう説タイ。

 江戸時代は街道の宿場として栄えとった久喜宮宿(くぐみや)と志波宿の間にあって、湯治場として賑わいよったていう。

 昭和28年6月の筑後川大水害で壊滅的な打撃を受けたもんやケン、建設省(国土交通省)は、幅約150メートル、長さ約1850メートルの原鶴放水路ば、事業費58億円かけて昭和55年に完成させ、通水ば開始した。 放水路が出けるまでは温泉街の近くまで水田が広がっとって、その趣きが残っとった。

 山笠があるケン、博多タイ。なら、原鶴温泉いうたら夏の風物詩「鵜飼い」タイ。温泉街の名物になっとる。

 原鶴の鵜飼いは約1250年の伝統があって、いまでも3人の鵜匠が受け継いどる。

 博多山笠の歴史がことしで771年やケン、山笠も太刀打ちでけん。

 観光客らは屋形船に乗って鵜飼いば見ながら約1時間の川下りを楽しんどる。かがり火の下、鵜匠が5〜7羽の鵜ば巧みに操り、鵜がアユやハヤば捕らえる度に拍手喝采タイ。

 ひと夏で約1万人の見物客があるていう。

 ここで駅長得意の「博多一口にわか」ば聞いちゃりぃ。

上・原鶴大橋から見た温泉の北側半分。後ろに見えとるとは、高山の中腹にある「平成ビューホテル」で、こっから筑後川の眺めはよか。



「こらあ たまがったバイ。原鶴温泉でクサ、鵜飼いの鵜ば操りよって、船頭さんの川ん中い落て込みなったゲナ」

「ウショーッ(嘘・鵜匠)」

下・左岸から見た原鶴大橋と温泉街。橋の形式は 3径間連続鋼床版箱桁。素人が聞いたっちゃなんのことかさっぱり分からん。

 そもそも原鶴で活躍しとる鵜は海で育った「ウミウ」で、体力があり、喉も大きかケン、一度に800gもの魚ば飲み込むことのできるゲナ。

 鵜匠のところに来た鵜たちは、川魚に慣れさせる前に人慣らしば1ヶ月、さらに先輩の鵜たちと一緒に1年間のトレーニングばさせられる。舟の縁に留まるとにも決まりがあって、舟の先端から順に年功序列で並ぶごとなっとるとゲナ。たまに新人の鵜が場所ば間違えたりすると、先輩の鵜から激しくつつかれるていう。

 船の灯に驚いて逃げる魚の、光るうろこば見っけて飛びつき捕らえるごと訓練されとるとゲナ。鵜匠さんたちは専用の竜舟(りゅうせん)て呼ばれる舟に乗り、8羽の鵜ば操る。これは「ウショーッ(嘘・鵜匠)」じゃなか。

 橋の話が後になってしもうたバッテン、温泉街の中心に架かっとる橋が原鶴大橋で、でけたとは昭和34年3月。
橋の長さは174m。幅が5.4mの堂々たるもんで、橋の形式は 3径間連続鋼床版箱桁ていう。

 河口からの距離56kmのとこにあって、一般県道高山千年線が跨いどる。福岡県道587号、高山千年線(たかやま ちとせせん)いうとは、朝倉市からうきは市間の一般県道。ていえば格好よかバッテン、原鶴温泉入り口交差点から、温泉街ばとおって原線大橋ば渡ったらオシマイていう、1kmにも足らん県道やった。

 原線大橋ば渡ってすぐ突き当たったとこに、上流の大石堰から導水されてきた大石用水が北と南に分水される「角間の天秤(かくまのてんびん)」ていう井堰(遺跡のギャグ)がある。これについては「57番線」の「筑後川其の七」に詳しゅう紹介しとるけ見ちゃんしゃい。

右・はしの街灯にも鵜飼いがデザインされとって、夜に灯が入ると、橋全体がよか雰囲気になる。

 筑後川の右岸ば国道386号線で下ってきて「道の駅原鶴」から約2kmで恵蘇八幡宮の下ばゆるぅく右カーブすると「恵蘇宿」ていう信号がある。

 左折すると、これが県道511号吉井恵蘇宿線 (よしい えそのしゅくせん)いうて、うきは市の「札ノ辻」交差点から「恵蘇宿」交差点までの一般県道タイ。左折して100mで渡るとが「恵蘇宿橋」 橋の手前で山田堰から取り入れられた堀川用水の橋ば渡る。
 山田堰と堀川用水については58番線の「筑後川其の八」ば見てつかあさい。。

 恵蘇宿橋は昭和30年(1955)4月に完成した鋼連続ゲルバートラス橋で、河口からの距離52km。長さ284m、幅が6.7m。
 ゲルバートラス橋いうたら、トラスは鉄鋼の三角構造いうことは前にも出て来たケン、写真見て貰えば「ははーん」て分かるやろう。

 そんならゲルバーいうとは何かいな。この構造ば考え出したドイツ人の名前タイ。英米では、ドイツ人の名前じゃ面白うなかもんやケン、カンチレバー橋ていう。
 古か日本人は「突げた橋」ていうた。

上・右岸からの恵蘇宿橋の上流側。遠景は耳納山脈。下・同じく右岸からの下流側。

 親柱の鉄骨に取り付けられとる建設当時の銘板は、もう腐りかかって「昭和30年、福岡県建造」ていう文字がかすかに読めた。

 突如として話は、641年に飛んでいく。1371年も昔の話タイ。

 舒明(じょめい)天皇は即位13年目で死になった。これば歴史では崩御するていう。後継ぎは(皇位継承ていう)皇太子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)になるはずやったとバッテン、16才では若すぎるいうことで、皇后の宝皇女(たからのひめみこ)が皇位に就いた。

 これば「皇極(こうぎょく)天皇」ていう。舒明天皇には、中大兄皇子、間人皇女(はしひとひめ)、大海人皇子(おおあまのおうじ)、古人大兄皇子(ふるひとのおおえ)の四人の子がおって、後継ぎ争いば避けるために皇極天皇が即位したていわれとる。

 蝦夷の入鹿(いるか)の勢力が朝廷に憚りだしたもんやケン、中大兄皇子は「乙巳の変(いっしのへん)」ば起こして、入鹿ば殺し、蘇我の勢力ば朝廷から一掃した。これが歴史で習うた「大化の改新」タイ。

 その後、中大兄皇子は皇極天皇の弟「孝徳天皇」ば擁立して難波の宮へ遷都したとバッテン、その孝徳天皇が死になった後も、中大兄皇子は即位せんやった。

 そこで母の皇極女帝が再び即位して「斉明(さいめい)天皇」ていうことになる。我が国初の「重祚(ちょうそ・同じもんが2回天皇ばすること)」ていう。

 斉明天皇は、各地の土木工事ば推進、東北の蝦夷侵攻なども積極的にしなった女傑やったごたる。

 また対外政策では、新羅が唐と謀って百済ば滅ぼしたもんやケン、天皇・皇太子(中大兄皇子)らは百済ば助けるため、はるばる九州にまで来とんなる。

 太宰府から奥に入った朝倉の地に「橘広庭宮」(たちばなのひろにわのみや)ていう仮宮ば建てて指揮にあたんなったっちゃが、日本の軍は唐・新羅の連合軍に白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で敗けてしまい、斉明天皇も朝倉の地で急死してしまいなった。

 これがいま通ってきた恵蘇八幡宮の奥に「御陵山」て呼ばれる古墳があって、斉明天皇の墓として残されとる。
 恵蘇宮八幡宮がこれば護っとるていう訳タイ。しかし、発掘されて確かめられた訳じゃなかケン「そうやろう」程度の話。地元では推定地に「橘広庭宮跡」の石碑ば勝手に建てとんなる。

 斉明天皇朝倉の地での葬儀にあたっては、大きな笠ば被った入鹿の怨霊が、麻底良山の端から葬列ば眺めとったとか、陣営で鬼火が舞うたとか、伝説が残されとる。

 皇太子・中大兄皇子(即位して天智天皇)は、斉明天皇が亡くなって7日後の8月1日、遺骸ば朝倉橘広庭宮から御陵山の山腹に丸太の小屋ば作らせて移し、1日ば1ヵ月にかえて12日間、喪に服しなったとゲナ。

 そやケンこの地ば「木の丸殿」て呼ぶごとなったとタイ。この場所がいまの恵蘇八幡宮の社殿あたりやったらしか。

 小倉百人一首の
  「秋の田の刈穂の庵のとまをあらみ 
              我が衣手は露にぬれつつ」

 新古今集の
  「朝倉や木の丸殿に我居れば 
           名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」

 ともに天智天皇がここで作んなったていう。


右・筑後川に夕陽が沈む。逆光の恵蘇宿橋。白いダイコンの花があたりばまだ明かるうしとる。

 日本軍がヒチャガチャ負けたもんやケン「今度は唐・新羅の連合軍が日本に押し寄せてくるバイ」ていう恐怖がうまれて、おおごとタイ。

 来るとすれば九州博多の港から太宰府狙い、いうことはだいだい想像がつくケン、慌てくりまわって防御のための山城ば築いた。

 対馬の金田城、基山の基肄城(きいじょ  う)大野城、水城もそうタイ。
 山口にも長門城ば作って博多湾・有明海・瀬戸内の三方ば守った。

 熊本にまで鞠智城(きくちじょう)いう兵站基地ば作るていう念の入れ方やった。
 この辺のことは「待合室の九州遺産」に全部書いとるケン参考にしてつかあさい。

 恵蘇八幡宮は、むかし郡中33ヵ所(上座郡)の総社として栄え、いまは朝倉町の総社となっとる。応神天皇、斉明天皇、天智天皇ば祭神として祀っとるとは、先に書いた歴史と次に書く因縁によるもの。

 神社の由諸によると、斉明天皇が661年、百済国救援のため筑紫の朝倉橘広庭宮に来なったとき、いっしょについてきとった中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と戦勝祈願のため、宇佐神宮の応神天皇にお使いば出しなった。

 使の一行が帰って来て恵蘇山麓に達した時、天上から白幡が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから、応神天皇の霊ば祀るため、この朝倉山天降八幡が創建されたていう。

 その後、673年に斉明天皇・天智天皇ば合祀し、この頃社名も恵蘇八幡宮に定めたていわれとる。現在の本殿は安永元年秋9月(1722)の改築ていうケン、もう300年近か。

右上・恵蘇八幡宮本殿。
左上・恵蘇八幡宮・拝殿の天井絵と献納額。
右下・この石段の上に「木の丸殿」があった。
左下・天智天皇が母君(斉明天皇)の通夜ば、1ヶ月間したていう「木の丸殿」跡の碑。

 恵蘇八幡宮の裏山の一番高っかとこに、斉明天皇の陵墓て伝わる古墳がある。町の指定史跡「御陵山1・2号古墳」てなっとるバッテン、測量も含めていっぺんも調査したことがなかとゲナ。調査もせんでなんで史跡指定か ?  わきゃあ分からん。

 覗いてみたら円墳状の高まりがふたあつあった。採集された埴輪片から判断して5世紀の古墳やった
可能性が高っかとゲナ。こらバッテン、眉唾もんバイ。

 宮内庁も知らん顔しとるケン、荒れ放題。もしこれがほんなことい斉明天皇の墓なら、斉明さんなぁ泣きよんなるバイ。

 
大分自動車道の朝倉ICば出て約1km南下したところにある。

 この道は県道80号・甘木朝倉田主丸線(あまぎ あさくらたぬしまるせん)いうて、朝倉市の秋月から久留米市田主丸町の鷹取までば南北に結んどる主要地方道タイ。

 朝羽大橋は山田堰の下流約4kmにあるケン、県道は橋の北側300mで山田堰から引かれた「堀川用水」に架かる「ひわたし橋」ば跨ぐ。

 朝倉と浮羽ば跨いどるケン「朝羽」ていう名前の橋にしたとやろう。橋の名前ばつけるときに両側の自治体の頭文字ばくっつけるとは、ありふれた常套手段タイ。

 朝倉と浮羽やったら文字の組み合わせは4の2乗で8種でける。閑やったらやってみんしゃい。

 「朝浮・朝羽・浮朝・浮倉・倉浮・倉羽・羽朝・羽倉」どれもパッとせん組み合わせやケン、朝羽大橋は仕方がないか。

 橋は昭和41年2月に完成した。
 橋の長さ442m、巾は6.7mの鋼連続ゲルバー桁橋。ほらまたゲルバーが出て来た。

 桁橋(けたばし)いうとは、橋脚の間ば横にかけた桁によって支える構造の橋で、ガーダー橋(Girder bridge) てもいう。橋ば支えるために特別な形状・細工ばしとらんケン、橋らしか橋ていえる。

 桁橋ではスパン(橋脚の間隔)ばあまり長くできんケン、長か橋になると橋脚ば多く立てて、つないでいかないかん。

 これには、1本の桁ば2個の支点で支える単純桁橋ていう方法と、1本の桁ば3個以上の支点で支える連続桁橋がある。

 単純桁橋は作りが簡単やケン、安上がり。連続桁橋は構造は複雑になるバッテン、長いスパンにすることができるうえ、床板のつなぎ目が少なくなるケン、車で渡るとき乗り心地が良か。

 また、地震などで橋脚の間隔が拡がったとき、単純桁橋では桁が落ちてしまうけど、連続桁橋ではその可能性が低っか。

 鉄道・道路などには桁橋が多く採用されとるバッテン、最近では圧倒的に連続桁橋が多か。

 他の形式と比べると、強度ば保つために材料が多くなることと、橋脚ば余計に建てなならん。朝羽大橋も橋脚の数は10本以上になっとる。



右・右岸(朝倉側)からの両筑橋。442mの長さが実感でける。

 橋は河口から50kmのところに位置しとる。昭和59年1月に補修したっきりやケン、もうたいがい草臥れてきとる印象が強か。

 このあたりは筑後平野の真っ只中、緑がいっぱいに広がって、長い橋と背景の耳納連山ば「ぼやーっ」と眺めとったら、なんか気持ちのスケールが大きゅうなる。

平成6年(1994)の塗装やケン、もうかれこれ20年。あっちこっち剥げちょろけて、そろそろお色直しの近づいとリますバイ。

左・耳納連山バックに右岸の親柱。比較的新しか橋だけにデザインも洒落とる。
下左・上流に車道、下流側に人道橋ば持っとる。
下・橋桁に塗装記録が残してあった。

 久留米から日田へ向かう国道210号線で田主丸町に入ると「栄町三丁目」の信号が迎えてくれる。信号越してすぐ左が前号で書いた鯉とりマーシャンの「鯉の巣支店」

 信号ば左折して北上しとるとが県道33号・甘木田主丸線(あまぎたぬしまるせん)で、ここ田主丸から旧甘木市の市役所のとこまで伸びていっとる。

 この県道が筑後川ば渡っとるとが両筑橋(りょうちくばし)。

 上流の朝羽大橋より10年も早うでけとるケン、同じ朝倉郡と浮羽郡ば結んどっても、こつちは筑前と筑後の架け橋ていう洒落た名前ばつけることがでけた。

 河口からの距離は45kmの地点にある。でけたとは昭和30年(1955)10月で、橋の長さ382m、巾が7mの鋼ゲルバー鈑桁橋。またまたゲルバーが出て来たバッテン、もう説明は要らんやろう。いまの橋は、昭和49年7月に補修したまんま。

 下流の約1kmに、前号で取りあげた筑後川四大井堰のひとつ「恵利堰」があり、左岸に「鬼ころし」の遺跡が人知れず埋もれとる。

 田主丸側から両筑橋ば渡るには、いったん筑後川土手に突き当たって左・右とジグザグに走らないかん。

 なしこげな構造になっとるとか。むかしは真っ直ぐに渡りよったっちゃなかか。

 そのむかし田主丸から甘木秋月まで両筑軌道ていう軽便鉄道があったらしか。

 上田主丸で筑後軌道(久大本線の元祖)に連結し、秋月までの駅は20以上あったゲナ。

 筑前と筑後ば結ぶいうことで、明治44年に創立された両筑軌道株式会社いうとがそれで、大正元年に田主丸〜甘木間で営業ば開始しとる。

 翌年大正2年には秋月〜甘木間の営業も開始しとる。当時は両筑軌道が、この地方の産物ば運搬する動脈やったろうケン、経済に貢献したに違いなか。

 バッテン、大正10年の大洪水が両筑橋の上流約10mの所にあった鉄道橋ば押し流したもんやケン、これがもとで両筑軌道は再建でけんまま、昭和5年には、甘木?田主丸間の軌道は廃止され、両筑橋ば経由して運行するバス会社になってしもうた。

 もし両筑橋ば両筑軌道が通っとったら、今とは違った田主丸・甘木になっとったかも分からん。
 木と鉄で出来とった橋やったケン、流されてしもうた不運な軌道やった。

 いま県道33号線がここでジグザグしとるとは、この影響かも知れん。

 橋の袂のかっぱが「おら知らーん」て、すましとった。


上・右岸側(朝倉)からの両筑橋とそそくった跡のある親柱。
中・下流側についとる人道橋はのちにでけたもん。
左・20年経って橋脚にも橋桁にもサビが出てきた。

 夏目漱石は、旧制第五高等学校(熊本)の教授ばしとった時に、何回も久留米に来たことがある。明治30年には親友の菅虎雄(すが とらお)ば訪ね、高良大社にお参りして、耳納連山ば草野の発心公園まで歩いとる。
 この時の山越えの体験が、のちに名作「草枕」の中にも生かされたていう。

  「菜の花のはるかに黄なり筑後川」

 漱石の句に、ぴったりの景色が両筑橋のあたりには広がって、夕陽に光っとった。

上・左岸(田主丸側)の土手から見た両筑橋。手前の白い花は「ダイコンの花」 筑後川の春の代表的な景色というたら、菜の花の黄色い絨毯バッテン、近年、川沿いの土手に咲くダイコン花の大群落ば見るごとなった。
 ちょうどこのあたりに両筑軽便鉄道の橋が架かっとったて思われる。
左・左岸下流側からの両筑橋。川原では菜の花とダイコン花が競演しとる。

   次回は筑後川橋・大城橋訪ねながら、南北朝時代にくりひろげられた筑後川一帯の大戦(おおいくさ)
                大保原の戦いに焦点ば当ててみます。
                取材期間 2005.9.15〜2012.04.01

         まだまだ半ばの筑後川。次回のは、本流に入っての7回目です。

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